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久保康友 : ミニ英和和英辞書
久保康友[くぼ やすとも]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

久保康友 : ウィキペディア日本語版
久保康友[くぼ やすとも]

久保 康友(くぼ やすとも、1980年8月6日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手投手)。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
奈良県橿原市出身。橿原市立鴨公小学校時代は藤原京跡グラウンドをホームグラウンドとする少年野球チーム「ホワイトベアーズ」に所属し、橿原市立八木中学校時代は軟式野球部でプレーしていた。
関西大学第一高校時代は、同校に合宿所がないこともあり、橿原市の自宅から大阪府吹田市の学校まで電車を乗り継ぎ、1時間半かけて通学していた。3年時にはエースとして同校の69年ぶりとなる第70回選抜高等学校野球大会に出場し、松坂大輔小池正晃後藤武敏小山良男らを擁する横浜高校に次ぐ準優勝を果たした。夏の第80回全国高等学校野球選手権大会にも出場を決めて春夏連続出場を果たし、また同校初の選手権大会となったが、8強入りしたものの最後は寺本四郎高橋一正らを擁する明徳義塾高校に2-11で敗れた。大会後に中村順司が率いる第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に選出され、同大会優勝に貢献。高校時代の同級生には工藤和樹がいる。
高校卒業後は松下電器に入社したが、野球部入部当初は度重なる故障に悩まされて登板機会が少なかった。久保は、後に同僚となる能見篤史同様「5年間やって結果が出なかったら引退して社業に就くつもりだった」と当時を振り返っている〔『週刊ベースボール』記事〕。入社5年目の後半から好成績を残して主力選手に成長した。同年の社会人野球日本選手権大会では圧倒的優位が予想されていた対伏木海陸運送戦でリリーフ登板し、4イニングを投げて最速148km/hの速球で7三振を奪ったが、9回裏の先頭打者に四球を与えたのをきっかけにサヨナラ負けを喫した。はこの時の反省を生かしエースとしてフル回転し、後にプロでチームメイトとなる手嶌智・能見・渡辺亮らと共に第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出された。同年秋のドラフト会議において自由獲得枠千葉ロッテマリーンズに入団。松坂世代で最後に自由獲得枠でプロ入りした選手となり、2007年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズ多田野数人が指名されるまでは「松坂世代最後の大物」と呼ばれていた〔「遅れてきた松坂世代」久保康友は逆襲の立役者。~CSにかける阪神の原動力~ - Number Web 2009年9月25日〕。
=== ロッテ時代 ===
4月2日の対福岡ソフトバンクホークス戦にリリーフでプロ初登板。4月24日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦でプロ初先発・初勝利・初完封を記録。5月4日にチームが45年ぶりの12連勝を記録した試合で勝利投手になり、5月19日まで7連勝を記録。しかし8月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦で連勝は止まり、の荒巻淳榎原好以来となる球団新人記録の8連勝はならなかった。9月17日の対西武ライオンズ戦で3度目の完封勝利となる10勝目を挙げ、前述の荒巻(26勝8敗)と榎原(16勝7敗)以来球団史上55年ぶり、右投手では球団初となる新人での2桁勝利を記録した。最終的に規定投球回到達はならなかったが、オフの11月4日には球団史上6人目、投手としてはチームが前回日本一になったの三井雅晴以来となる新人王を獲得。同日に婚約を発表した。
清水直行渡辺俊介らがWBCからの帰国直後で休養をとる必要があり、小林宏之が右太腿筋痛を訴え、小野晋吾は発熱するなどのチーム事情から、3月25日の対ソフトバンク戦で開幕投手を務めたが5失点で敗戦投手となった。同年は前半だけで6勝を挙げたが、セ・パ交流戦以降は防御率6点台で、8月以降は6連敗を喫するなど最終的には7勝にとどまった。シーズン防御率は4点台でリーグ2位の13敗を記録した。なおプロ入り初めて規定投球回に到達した。
3月20日に高校時代の監督だった尾崎光宏が胃がんで67歳で死去し、訃報の報道に「人に一切弱みを見せない監督でした」と故人を偲んだ。前半戦は勝利投手となっても防御率がよくない状態が続き、6月25日の対横浜ベイスターズ戦で左手甲に打球を受け左第5中手骨骨折で全治6週間と診断され6月29日に登録抹消された。8月7日に一軍復帰して以降は防御率3点台前半と好調を維持した。10月3日、10月5日には同年初の中継ぎ登板をしたが、これは10月8日から始まるクライマックスシリーズを見据えての調整登板だった。同年は9イニング平均で与四球が0.77個と少なかった。
は開幕から大量失点を繰り返し、中継ぎへの配置転換や二軍降格も経験した。シーズン後半は巻き返しも見せたが、共に自己ワーストの4勝、防御率4.95に終わり、投球回数も初めて100に届かなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「久保康友」の詳細全文を読む




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