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中田英寿 : ミニ英和和英辞書
中田英寿[なかた ひでとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 

中田英寿 : ウィキペディア日本語版
中田英寿[なかた ひでとし]

中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は、日本山梨県甲府市出身の元サッカー選手。元日本代表。愛称はヒデFIFA親善大使。株式会社東ハト執行役員。一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事。観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー。
日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府よりイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ)受章。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)〔準々決勝    ナイジェリア戦〕 、ワールドユース(現在のU-20W杯)〔第1戦 対チリ戦、第2戦対スペイン戦、〕 、U-23オリンピック〔シドニーオリンピック第2戦 スロバキア戦〕 、コンフェデレーションズカップ〔2001年日韓大会 オーストラリア戦、2003年フランス大会 ニュージーランド戦〕 、W杯〔2002年日韓大会 チュニジア戦〕 、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一の日本人選手である〔W杯南アフリカ大会迄の日本人得点者10人中、オリンピックでも得点しているのは、中田英寿・稲本潤一のみ。稲本はU-17W杯・ワールドユース・コンフェデレーションズカップは無得点『Sportiva別冊・日本代表超完全制覇421MATCH』〕。
== 来歴 ==

=== ユース時代 - Jリーグ(-1997年)===
小学3年生、8歳のときに『キャプテン翼』の影響でサッカーを始めた〔CNNj『Hidetoshi Nakata Revealed』〕。甲府市立北中学校3年生のとき、U-15(15歳以下日本代表)に選抜された。このとき指導していた中学校の監督は、関東選抜の一員であってもレギュラーではなかったため、落選するだろうと思っていたので、スタッフに選考理由を尋ねると「世界で戦うには、少しばかりのテクニックよりもフィジカル面の強さの方が大切。技術面では中田君より上の選手はたくさんいるが、フィジカル面の強さでは、彼はいいものを持っている。そこを評価した」と言われたという〔『山梨のサッカー』183頁〕。当時はFWとして登録されていた。U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、全ての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権U-19アジアユースワールドユースオリンピック(23歳以下)には全て「飛び級」で出場した。オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。韮崎高校2年の時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。
Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け〔『新潮45 9月号別冊 アッカ!!』〕、その中から横浜マリノス横浜フリューゲルスベルマーレ平塚の練習に参加した上で、1995年ベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされた。
1996年アトランタ五輪に出場し、後に「マイアミの奇跡」といわれるブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。次戦のナイジェリア五輪代表とは、強化試合やU-17世界選手権(現U-17W杯)で対戦していた中田は、勝てない相手ではないと判断。ハーフタイムには日本のDF陣に対して「もっとラインを押し上げてくれないと攻撃できない」と意見するが、前半、日本のDF陣は身体能力に物を言わせて攻めまくるナイジェリアに圧倒されており、中田英寿の意見は受け入れ難いものだった。それを見咎めた西野朗監督に叱責され、信頼を失って最終戦は外された。同じく下の世代から選出されたDF松田直樹も、実は中田と同じ意見であったが、世界を知らない上の世代には言ってもわかってもらえないと思い黙って見ていたという〔『28年目のハーフタイム』〕 。同年のシーズンオフに、イタリアセリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。期待したトップチームではなく下部での練習であったが、海外に目を向けていることを窺わせた。「平塚に行って良かったと思っています。平塚でプロを始めたから今がある。ペルージャに行くときにも、本当に気持ちよく送り出してくれた。」と語っている〔In His Time 344頁〕。韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にも挑戦した。
1997年に韓国との親善試合でフル代表に初招集され、先発デビューを飾る〔。以後、レギュラーに定着し、W杯アジア最終予選で苦しむフル代表をW杯初出場へと導く原動力となった。アジア予選の成績不振により加茂代表監督が更迭され、岡田ヘッドコーチが監督に就任すると、アウェイのウズベキスタン戦でスターティングメンバーから外されて後半から出場することになったが、これ以後、監督の構想から外れるという理由で代表戦に出られなかったことは一度もない。アジア第3代表決定戦となったプレーオフ・イラン戦では、中山雅史城彰二岡野雅行の上げた全てのゴールの決定機を作る活躍で勝利に貢献、『ジョホールバルの歓喜』と称して語られている。中田自身も、この試合の結果があったから国内外でメディアに注目され、同年12月に各国のスタープレーヤーを招いて行われた「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」に出場することになり(後半途中からはキャプテンマークを巻いてプレーした)、日本代表の責任を負っていくような立場になっていく、ターニングポイントになった試合だったことを語っている〔Number 2010年4月1日号〕 。その後引退までに計8回にわたって世界選抜試合に招かれ、現役引退後も世界選抜試合や親善試合に出場している(#経歴を参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中田英寿」の詳細全文を読む




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