翻訳と辞書
Words near each other
・ 中島諒人
・ 中島諭宇樹
・ 中島謙吉
・ 中島谷友二朗
・ 中島豊後守
・ 中島豪
・ 中島貞夫
・ 中島賢二
・ 中島賢星
・ 中島賢蔵
中島輝士
・ 中島辰次郎
・ 中島這棄
・ 中島通 (神戸市)
・ 中島通善
・ 中島連合会
・ 中島遊園地
・ 中島遊園地競馬場
・ 中島道
・ 中島道子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

中島輝士 : ミニ英和和英辞書
中島輝士[なかしま てるし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中島 : [なかしま, なかじま]
 【名詞】 1. island in a pond or river 
: [しま]
 【名詞】 1. island 

中島輝士 : ウィキペディア日本語版
中島輝士[なかしま てるし]

中島 輝士(なかしま てるし、1962年7月27日 - )は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身の元プロ野球選手外野手内野手)、プロ野球コーチプロ野球監督
== 来歴 ==

=== アマチュア時代 ===
佐賀商投手だった父の影響で、3歳から野球ボールで遊んでいた〔「遅れてきた怪物テルシー 史上2人目の快挙!開幕戦新人サヨナラ本塁打を放った中島輝士の素顔」『Sports Graphic Number』、1989年5月5日号、P.62〕。三田川中学では県大会で準優勝し、に柳川商業高校(在学時に柳川高校に名称変更)に入学〔。野球部の同期に高杢禎彦(元チェッカーズ)がおり、後々まで交流が続いている〔毎日新聞、2002年8月31日付朝刊、P.21〕。投手を務めて1年秋の神宮大会を制し、全国的に知られるようになった〔。
連日200球の投げ込みで制球力が向上し、2年秋の県大会および九州大会では9試合に登板して5失点のみ、5完封、100奪三振、ノーヒット・ノーラン2回という好投を見せて翌年春の選抜大会出場に貢献した〔読売新聞、1980年2月27日付朝刊、P.17〕。本大会では2回戦で尼崎北に敗れたが、長身からネッシーをもじって「テルシー」と呼ばれ、人気を博した〔。同年のドラフト会議前には8球団が上位での指名を検討したが、前年に父が亡くなっていたことから、安定した社会人野球へ進むことを母が願い、プリンスホテルに入社した〔「開かれる運命の扉 ドラフト・スペシャル あのドラフト1位は今 中島輝士『どこかにいる原石を探す。チーム編成の根幹となる1番大切な仕事』」『週刊ベースボール』、2002年12月2日号、P.31〕。
に右肩鎖関節下の血行障害を発症し、4ヶ月の療養の末に投手を断念してから野手に転向した〔「『必殺仕事人』大田卓司のこの男を斬る 東京ドームより、西武球場でたくさんホームランを打ちたいですね!」『週刊ベースボール』、1989年1月30日号、P.114〕〔『Sports Graphic Number』、1989年5月5日号、P.63〕。指名打者制の社会人では全く打撃練習をしていなかったが、毎日1,000回はバットを振り、の春頃からバッティングに手応えを感じるようになった〔『週刊ベースボール』、1989年1月30日号、P.115〕。
アジア選手権兼ソウル五輪予選では日本代表の4番を務め、打率.714、4本塁打、14打点の成績で大会三冠王となり、チームも同五輪への出場権を獲得した〔読売新聞、1987年9月1日付朝刊、P.17〕。また、同年のIBAFインターコンチネンタルカップでも6本塁打を放っている〔『Sports Graphic Number』、1989年5月5日号、P.61〕。この活躍を評価され、翌年のソウル五輪代表入りのためプロ入りしないよう監督の石山建一から要請され、これを受諾している〔。この要請の背景には、日本野球連盟会長の山本英一郎とプリンスホテルオーナーの堤義明の意向もあったという〔。同年は初の社会人ベストナイン一塁手として受賞した〔読売新聞、1987年11月17日付朝刊、P.17〕。
は同僚の石井丈裕小川博文とともに五輪代表に選出され、筒井大助らとともに野手陣のまとめ役となった〔別冊宝島、1545号、P.75〕。準決勝の対韓国戦では、7回裏に登板したエースのから同点ホームランを放っている〔別冊宝島、1545号、P.69〕。同五輪では5試合全てに4番・一塁手としてスタメンで出場し、いずれもチームトップの10安打、打率.436、1本塁打、6打点の成績で銀メダル獲得に貢献した〔別冊宝島、1545号、P.70〕。同年も社会人ベストナインに選ばれている〔読売新聞、1988年11月15日付朝刊、P.19〕。また、11月12日には3年間交際した女性と高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた〔。
同年秋のドラフト会議日本ハムファイターズ福岡ダイエーホークスから1位指名を受け、抽選により日本ハムが交渉権を獲得した。ドラフト前は在京のセ・リーグ球団を希望していたが、原辰徳清原和博に並ぶ当時のNPB最高額となる契約金8,000万円を提示され、年俸840万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる〔読売新聞、1988年12月16日付朝刊、P.19〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島輝士」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.