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三郡共立学校 : ミニ英和和英辞書
三郡共立学校[さんぐんきょうりつがっこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [ぐん]
 【名詞】 1. country 2. district 
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共立 : [きょうりつ]
  1. (n,vs) joint 2. common 
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
学校 : [がっこう]
 【名詞】 1. school 
: [こう]
  1. (n,n-suf) -school 2. proof

三郡共立学校 : ウィキペディア日本語版
三郡共立学校[さんぐんきょうりつがっこう]
三郡共立学校(さんぐんきょうりつがっこう)は、神奈川県大住郡(のち中郡金目村(現在の神奈川県平塚市)に存在した学校であり、五郡共立小田原中学校の後身、神奈川県立秦野高等学校および神奈川県立平塚農業高等学校の前身である。
==歴史==
1872年(明治5年)4月まで神奈川県西部の教育を担った元の小田原藩藩校県学校文武館の閉鎖、それとほぼ同時の共同学校の創立、1874年(明治7年)11月の同校の廃止とそれに伴う小田原師範学校への改称、1876年(明治9年)6月30日の同校内の中等科設置、1879年5月24日の横浜師範学校への統合による小田原師範学校の廃止、1879年(明治12年)10月の足柄上郡足柄下郡、大住郡、淘綾郡津久井郡愛甲郡による六郡共立小田原中学校の創立と旧師範学校施設の引き継ぎ、1880年(明治13年)2月の津久井郡の脱退による五郡共立小田原中学校への改称、同校の大住郡への移転問題に起因する1884年(明治17年)7月の同校の廃校、以上の経緯により、1885年(明治18年)、同校廃校を遺憾とする大住郡、淘綾郡、足柄上郡の3郡が同校を大住郡へ誘致するため本校設立を県に出願し、許可された。そして翌1886年(明治19年)5月、旧五郡共立小田原中学校は大住郡金目村に誘致され、本校が同村宗信寺本堂を仮校舎に開校された。
入学資格は尋常小学科の卒業以上、もしくはこれと同等の学力ある者で、満10年以上の者とされた(1890年8月同校教則第6、7条)。課程は3年であり、教授教科は英語漢文数学の3科であった(同第1条、2条、別表甲号)。遠方からの学生のため寄宿舎も設けられていた(同第9条第1項)。
創立後は以下の変遷をたどった。1893年(明治26年)1月、金目小学校が新築移転したため、旧校舎を買収し、本校はそこへ改築移転した。1896年(明治29年)4月、大住郡と淘綾郡が合併し、中郡となったので、校名は二郡共立学校に改称された。1898年(明治31年)4月、足柄上郡が脱退したため、校名は中郡共立学校と改称された〔秦野高等学校公式サイト・概要・1.沿革 によると、中郡共立学校への改称は1896年(明治29年)であるが、神奈川県立秦野高等学校『秦野高等学校史』(ぎょうせい、1986年)巻末年表にしたがった。〕。1899年(明治32年)7月、新校舎を南金目村寺島に新築し、全校が移転した。1900年(明治33年)3月、郡制改正施行により、校名は中郡立中郡学校と改称された。1902年(明治35年)4月、国の実業教育政策に応じる形で本校は中郡立中郡農業学校として組織と学科が改められ、郡立農業学校が開校された。1903年(明治36年)、県農業会が県立農業学校設立の建議を行ったことに応じ、同年8月、郡会議員他数名が郡立農業学校を県立農業学校にあてるように陳情をおこなった。そして1906年(明治39年)9月、中郡選出県会議員他有志数名が県知事に同趣旨の陳情をし、知事もこれを了解したが、翌1907年(明治40年)、校地の位置が平塚町達上西畑向原に決定された。そして1908年(明治41年)4月、神奈川県立農業学校(甲種)として開校された(その後、同校は県立平塚農業高校へと発展)。初代校長には明治農学界の第一人者、高田鑑三が着任した。
一方で、郡立農業学校は在校生が卒業するため、その後2年間、存続することになり、学校長は第3代校長である飯田洪農(養蚕学の権威)が引き続き校長を務め、1909年(明治42年)3月20日の最後の卒業式を執り行った。そして同年同月、郡立農業学校は廃校となった。南金目村村長猪俣松五郎、後に私立学校校長となる太田澄三郎(当時第二開成中学校校長)により不要となる校舎が無償借用された。そして同年4月、中郡有志により私立育英学校が創立された。〔以上は、秦野高等学校史・前掲・4-63頁、小田原高校公式サイト・学校沿革 平塚農業高校公式サイト によった。なお本校規則は秦野高等学校史・前掲・22頁以下収録。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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