翻訳と辞書
Words near each other
・ ローレンス・ダンダス (第2代ゼットランド侯)
・ ローレンス・ダンダス (第2代ゼットランド侯爵)
・ ローレンス・ダンダス (第2代ゼトランド侯)
・ ローレンス・ダンダス (第2代ゼトランド侯爵)
・ ローレンス・ティアニー
・ ローレンス・ティベット
・ ローレンス・デニー
・ ローレンス・デミー
・ ローレンス・デュボース
・ ローレンス・トムズ
ローレンス・ドハティー
・ ローレンス・ナイト
・ ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)
・ ローレンス・ハリス
・ ローレンス・ハルプリン
・ ローレンス・ハーグレイヴ
・ ローレンス・ハーグレーブ
・ ローレンス・ハーヴェイ
・ ローレンス・バークリー研究所
・ ローレンス・バークレー国立研究所


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ローレンス・ドハティー : ミニ英和和英辞書
ローレンス・ドハティー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ローレンス・ドハティー : ウィキペディア日本語版
ローレンス・ドハティー[ちょうおん]

ローレンス・ドハティーLaurence Doherty, 1875年10月8日 - 1919年8月21日)は、イングランド・ウィンブルドン出身の男子テニス選手。フルネームは ''Hugh Laurence Doherty'' (ヒュー・ローレンス・ドハティー)という。3歳年上の兄レジナルド・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。ローレンスは“Laurie”(ローリー)という愛称で呼ばれ、小柄な弟であったことから“Little Do”(リトル・ドー)とも呼ばれた。
1903年に史上初のグランドスラム2冠を達成。1902年から1906年までウィンブルドン5連覇(大会歴代2位記録)。金メダルを2個獲得。

== 来歴 ==
ローレンスとレジナルドの「ドハティー兄弟」は、1897年から1906年まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、1902年1906年の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。先に兄のレジナルドが1897年から1900年までウィンブルドン選手権のシングルスに「4連覇」を達成したが、その間の1898年に決勝でローレンスとレジナルドの“兄弟対決”があり、ローレンスは兄に敗れたことがある。1901年にレジナルドの連覇記録が止まった後、弟のローレンスは1902年から1906年までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成した。1902年から1906年まで、ドハティー兄弟はシドニー・スミスフランク・ライスリー組と5年連続で男子ダブルスの決勝対決をしている。ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。
ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。1900年パリ五輪では、ローレンスは男子シングルスと、兄弟のダブルスの2部門で金メダルを獲得した。全米選手権にも遠征し、ダブルスでは1902年1903年に2連覇を達成する。ローレンスは1903年にシングルスでも優勝を飾ったが、この時の決勝戦では、前年度の決勝でレジナルドを破ったウィリアム・ラーンドと対戦した。ローレンスは 6-0, 6-3, 10-8 でラーンドを破り、兄の“敵討ち”に成功した。
ドハティー兄弟は2人とも若くして早逝し、先に兄のレジナルドが1910年12月29日にわずか38歳の若さで亡くなった。弟のローレンスもその9年後、1919年8月21日に43歳で死去した。1980年、兄弟は2人揃って国際テニス殿堂入りを果たしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローレンス・ドハティー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.