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レスリー・マニガ : ミニ英和和英辞書
レスリー・マニガ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レスリー・マニガ : ウィキペディア日本語版
レスリー・マニガ[ちょうおん]

レスリー・マニガLeslie Manigat1930年8月16日 - 2014年6月27日)はハイチ政治家
第43代ハイチ大統領(任期1988年2月7日 – 1988年6月20日)。
== 経歴 ==
1930年、首都ポルトープランス生まれ。両親は教師であり、進歩的な中流階層に属していた〔『朝日新聞』「ハイチの新大統領に就任した レスリー・マニガ大統領」1988年2月9日東京朝刊7頁〕。
1950年代初頭にはフランスのパリ大学に留学して政治学博士号を取得し、1953年に帰国。その後外務省に入りフランソワ・デュバリエ大統領のブレーンとして活動し、1958年にはハイチ大学国際問題研究所の初代所長に就任した。しかし1960年の大学ストライキに加担したとデュバリエに疑われて投獄され、2か月投獄される。1963年に釈放された後はフランス、アメリカ、ベネズエラを転々とする亡命生活を送りながら、各地で政治学の教授として教鞭をとる。
1979年、デュバリエ政権に反対する進歩的民主主義国民連合党(RDNP)を組織し党首に就任〔"Le Rassemblement des Démocrates Nationaux Progressistes fête ses 30ans" MetropoleHaiti.com、2009年6月1日。〕。1986年、ジャン=クロード・デュヴァリエ大統領が軍のクーデターにより失脚すると約20年ぶりにハイチに帰国。1988年1月、ハイチ大統領選挙に出馬し得票率50.2%で当選した。なおこの選挙をめぐっては軍部による不正工作が行われたとされ、当初有力とみなされていた候補者4名が選挙をボイコットしカトリック教会が選挙結果の無効を主張するなど大きな混乱を生じる結果となった〔『毎日新聞』1988年1月26日東京朝刊7頁「ハイチ新大統領、レスリー・マニガ氏」〕〔『読売新聞』1988年2月8日東京夕刊2頁「ハイチの新大統領に就任した レスリー・マニガ氏」〕。2月7日、大統領に就任し大学教授のマルシャル・セレスタンを首相に指名する。その後、軍の人事を巡ってアンリ・ナンフィ元軍最高司令官と対立するようになり、6月20日にナンフィがクーデターを決行してわずか4か月で政権は崩壊した〔『読売新聞』1988年6月24日東京朝刊13頁「ハイチに手焼く米 非難?歓迎?混乱も 軍のかいらいマニガ氏」〕。
クーデター後はドミニカ共和国に亡命し、その後ワシントンDCパリで客員研究員となった〔 "Before realizing our hopes, it may be very costly for Haiti" South Florida Sun-Sentinel.Alva James-Johnson (January 3, 2004).〕 。ハイチに帰国後の2006年、ハイチ大統領選に再び立候補したが前職のガルシア・プレヴァルに敗れ次点に終わった。夫人のミランダは2010年ハイチ大統領選に出馬し決選投票まで残ったが、ミシェル・マテリに敗れた。
2014年、首都ポルトープランスにて死去〔元ハイチ大統領、L・マニガ氏が死去 83歳 MSN産経ニュース 2014年6月28日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レスリー・マニガ」の詳細全文を読む




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