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レオナルド・トーレス・ケベード : ミニ英和和英辞書
レオナルド・トーレス・ケベード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レオナルド・トーレス・ケベード : ウィキペディア日本語版
レオナルド・トーレス・ケベード[ちょうおん]

レオナルド・トーレス・ケベード西: Leonardo Torres Quevedo1852年12月28日 - 1936年12月18日)は、19世紀終盤から20世紀初期にかけて活動したスペイン人技術者にして数学者レオナルド・トーレス・イ・ケベード(''Leonardo Torres y Quevedo'')とも。
== 経歴 ==
1852年12月28日、スペインカンタブリア州 モリェド(Molledo)のサンタクルス・デ・イフーニャ(Santa Cruz de Iguña)で生まれた。父親が鉄道技師として働いていたため、職場のあるビルバオで幼少期を過ごした。ビルバオで高校を優秀な成績で卒業し、後に2年間パリで学んだ。1870年、父親の転勤に伴ってマドリードに移住。同年、道路技術者隊(Road Engineers' Corps)の公式な学校に入学。1873年、第三次カルリスタ戦争が勃発しビルバオがカルリスタに包囲されたため、トーレスはビルバオ防衛に志願兵として赴いた。その後再びマドリードの学校に戻り、1876年に卒業。
父親と同じ鉄道会社に就職したものの、科学技術の進歩の様子(特に注目され始めたばかりの電気に関すること)を直に見るため、すぐにヨーロッパ放浪の旅に出た。スペインに戻ると、サンタンデールに定住し、自己資金で調査研究を始めた。その成果はまず1893年に明らかとなった。
1885年に結婚し、8人の子を儲けている。
1899年、マドリードに移住。この間の彼の研究成果に基づいて応用数学研究所が設立され、彼は所長に任命された。この研究所は主に科学的機器の製造を目的としていた。同年、マドリードの王立自然科学アカデミーの一員となり、1910年には会長となった。同研究所の成果としては、ゴンサロ・ブラニャス(Gonzalo Brañas) による映画撮影技術と カブレラ(Cabrera)とコスタ(Costa) によるX線分光器が有名である。
1900年代初期、トーレスはエスペラントを学び、生涯その信奉者となった。
1916年、スペイン国王アルフォンソ13世から勲章を授与される。1918年、開発大臣就任の打診を受けたが、辞退した。1920年スペイン王立アカデミーの一員となり、パリの科学アカデミーの力学部門の一員にも選ばれた。1922年パリ大学から名誉博士号を授与された。
トーレスは1936年12月18日スペイン内戦真っ最中のマドリードで死去。84歳の誕生日の10日前であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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