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ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン : ミニ英和和英辞書
ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン ( リダイレクト:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ) : ウィキペディア日本語版
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン[ちょうおん]

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン(〔標準ドイツ語での発音はluːtvɪç 'joːzɛf 'joːhan 'vɪtgənʃtaɪn''。本人は生涯「ヴィ」と発音していた。〕〔彼はイギリスでも活動したが、英語圏でもウィトゲンシュタインではなくヴィトゲンシュタインと発音される。八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』講談社選書メチエ、ISBN:978-4-06-258547-7、p12〕、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリアウィーンに生まれ主にイギリスケンブリッジ大学で活躍した哲学者である。著作活動は母語ドイツ語で行った。後の言語哲学分析哲学に強い影響を与えた。初期の著作である『論理哲学論考』に含まれる「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題は、一般にも有名な言葉の一つである。本項でも以下この表記を用いる。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが〔野家 1999、24頁。〕、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、小学校教師になるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62才。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。
ヴィトゲンシュタインと発音される。八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』講談社選書メチエ、ISBN:978-4-06-258547-7、p12〕、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリアウィーンに生まれ主にイギリスケンブリッジ大学で活躍した哲学者である。著作活動は母語ドイツ語で行った。後の言語哲学分析哲学に強い影響を与えた。初期の著作である『論理哲学論考』に含まれる「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題は、一般にも有名な言葉の一つである。本項でも以下この表記を用いる。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが〔野家 1999、24頁。〕、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、小学校教師になるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62才。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。
== 生涯 ==

=== 幼少時代 ===

1889年4月26日オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた〔野家 1999、14頁。〕。ウィットゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた。〔『アスペルガー症候群の天才たち』マイケル・フィッツジェラルド(著) 石坂 好樹 (訳) 2008年〕そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。
祖父ヘルマン・ウィトゲンシュタインは、ユダヤ教からプロテスタントに改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ウィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた〔。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリックを実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。
ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ウィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており〔、そのなかにはホフマンロダンハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもウィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている〔のちに捕虜収容所で友人から「クリムトが君と同じ姓の女性を描いているね」といわれたとき、「姉だけど」と答えても信じてもらえなかったという。〕。
ウィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でメンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ブラームスマーラーブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィークシューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた〔野家 1999、18-19頁。〕。ルートヴィヒの兄パウル・ウィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、ラヴェルリヒャルト・シュトラウスプロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している〔。
ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった〔。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や隠喩をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としては鬱病自殺の傾向がある〔ハプスブルク家治下のウィーンではそもそも自殺率が高かった。〕。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた〔野家 1999、15頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の詳細全文を読む




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