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リッジリー砦の戦い : ミニ英和和英辞書
リッジリー砦の戦い[りっじりーとりでのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

リッジリー砦の戦い : ウィキペディア日本語版
リッジリー砦の戦い[りっじりーとりでのたたかい]

リッジリー砦の戦い()は、アメリカ合衆国南北戦争中に起きたインディアンとの闘争であるダコタ戦争の戦闘である。リッジリー砦は1853年から1855年に当時のミネソタ準州南部に建設され、サンティ・スー族インディアン居留地と開拓地の間では唯一の軍事基地だった。
1862年8月20日、大挙して押し寄せたインディアンに対し、急遽集められた志願兵を含む部隊が砦を守り抜いた。

== 背景 ==
1862年8月18日、ミネソタ州レンビル郡にあった南スー族インディアン管理局がインディアンに攻撃された。インディアンたちは飢えるまで放っておかれた自分たちの食料を管理局まで取りにきていた。そこに集まった白人指導者とインディアン管理局長との間に議論があった。管理局の役人は反対したが、他の者がインディアンに少量の豚肉と小麦粉を渡すよう説得した。管理局の役人は、インディアンが居留地まで即刻戻りさえすれば、翌朝にも食料を居留地に配達させると付け加えた。その時点まで、8月の暑さの中をインディアンは武装したまま平和的に立ったままだった。このときそこに集まった白人は67人であり、数でははるかにインディアンより劣っていた。彼らはその暑さに不快になり始め、小さな集団になっては家に戻り始めた。

インディアン戦士の幾人かがそこを立ち去った開拓者を追跡して、起こるべくして起こった戦闘が始まった。残っていた者達は管理局の建物を取り囲んだ者達との戦いを始めた。数時間のうちに白人20人が殺され、10人が捕虜になった。生き残った者は逃亡し、リッジリー砦に向かった者もいたが、多くは自分達の家、家族の所に駆け付けようとした。家に向かった者達は翌朝に集まって砦に行こうと考えていた。
J・C・ディキンソンが最初に逃げ出した者と見られており、荷車に家族を載せてリッジリー砦に連れて行ったが、砦では誰も攻撃があったことを信じてはいなかった。次々と開拓者が砦に到着し、ミネソタ第5連隊B中隊ジョン・S・マーシュ大尉に管理局が襲われたことを納得させた。マーシュは鼓手のチャールズ・M・カルバーにロング・ロール(非常招集)を敲くよう命令した。このカルバーは当時12歳であり、1943年に93歳で死んだときにはB中隊最後の生き残りになっていた。74名の兵士が集まった。その中にはマーシュ大尉、トマス・P・ギア少尉、軍曹4名、伍長7名、兵卒62名がいた。マーシュは46名を選別し、さらにインディアン通訳ピーター・クインを連れて、管理局に向けて進発した。その道すがら、多くの白人仲間やインディアンの死体を見つけた。クインはホワイトドッグ酋長に殺された最初のものであり、他に兵士10名が殺された。午後おそくまでに、マーシュ大尉にはその指揮下に11名しか残っておらず、24名が殺されていた。マーシュは砦に戻ることに決め、兵士達にはミネソタ川を越させようとした。マーシュは泳ぎが上手だったが、脚に痙攣を起こしてしまった。ジョン・F・ビショップ軍曹が次の士官であり、兵卒のジョン・ブレナン、ジェイムズ・ダン、スティーブン・ヴァン・ビューレンにマーシュを助けに泳いで行くよう命令した。ブレナンがまず届き、マーシュがブレナンの肩に掴まったが、その後に離れてしまった。マーシュは溺れ、その体が川に浮くのを兵士達は目撃した。マーシュはこのとき28歳だった(レッドウッドフェリーの戦い)。ビショップ軍曹が残りの11名を率いて砦に戻った。彼らは真夜中前に戻った。
マーシュは出発前に8月17日にリッジリー砦を出発していたシーハン中尉に伝言を送り、ミネソタ第5連隊C中隊から50名を率いて戻らせていた。ビショップとシーハンが会ったとき、兵卒のウィリアム・J・スタージスを派遣して他の者達、特に州知事のアレクサンダー・ラムジーにインディアンの蜂起について警告を伝えさせた。B中隊のノーマン・K・カルバー中尉など他の者達はセントポールで志願兵を集め始め、援軍として「レンビル・レンジャーズ」を連れてリッジリー砦に到着した。ジェイムズ・ゴーマン中尉の下には約50名の白人がおり、南北戦争に従軍するはずだったが、ハーパー・ライフル銃とそれぞれ3発の銃弾を持ってリッジリー砦に行った。全部で約70名の市民が志願兵となった。その中の10名は女性であり、他の者は兵士の親戚だった。B中隊の兵員は約65名から200名以上になった。その中に従軍商人のB・H・ランドール、兵站軍曹のジョン・ジョーンズ、アルフレッド・ミュラー医師がおり、またその後にハッチのミネソタ志願騎兵大隊を率いることになるE・A・C・ハッチ少佐もいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リッジリー砦の戦い」の詳細全文を読む




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