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リカルド・ロペス : ミニ英和和英辞書
リカルド・ロペス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


リカルド・ロペス : ウィキペディア日本語版
リカルド・ロペス

リカルド・ロペス・ナバRicardo López Nava、男性、1967年7月25日 - )は、メキシコの元プロボクサー。元WBCWBAWBO世界ミニマム級王者。元IBF世界ライトフライ級王者。「小さな巨人」「エル・フィニート(素晴らしい)」などの異名を持った。
精密機械と形容されるほど正確無比なパンチを持ち、なおかつ基本に忠実なボクシングスタイル。遠・中距離から伸びるワンツー・アッパーでKOの山を築いた。さらに、慎重な性格で素質に溺れることもなく、普段の練習態度も非常に真面目で常日頃から努力を怠らなかった。8年以上も同階級にとどまり続けられたのも普段からの節制の賜物である。
名門ルピータジムにてクーヨ・エルナンデスに一からボクシングを学び、クーヨ亡き後はロマンサ・ジムへ移りナチョ・ベリスタイン門下へ。Zボーイズルーベン・オリバレスを育てた名伯楽クーヨをして「傑作」と言わしめた。
== 来歴 ==
アマチュア戦績40戦全勝を経て、1985年1月18日、プロデビュー。
1989年11月7日、WBCアメリカ大陸ミニマム級王座決定戦出場。同国人のレイ・エルナンデスを最終・12回TKOに降し、王座獲得。1990年3月15日には初防衛に成功。
1990年10月25日、無敗のまま26戦目で世界王座初挑戦。後楽園ホールでWBC世界ミニマム級王者大橋秀行に挑む。4回に1度ダウンを奪うと、迎えた5回、王者に更なる追撃を浴びせ、2度のダウンを追加。王者が通算3度目のダウンから立ち上がろうとしたところでレフェリーストップとなり、新王者となった。翌1991年5月19日、静岡での初防衛戦では地元出身・平野公夫の挑戦を受け8回TKO勝ち。1992年10月11日、5度目の防衛戦では王座獲得を果たした後楽園ホールに再登場。台湾出身のロッキー・リン指名試合を行い、2回KO勝ち。日本での試合はこれが最後となったが、以降も日本での世界戦に出場する同国人選手の応援や韓国やタイでの遠征試合の調整などでたびたび来日。
1995年4月1日、「タバナス大塚」のリングネームで日本でも活躍しているアンディ・タバナス(フィリピン)を最終12回KOに降し、14度目の防衛に成功した後は負傷の影響で1年弱試合から遠ざかる。
負傷から復帰した後も防衛を重ね続け、1997年8月23日、20度目の防衛戦を迎える。WBO世界同級王者アレックス・サンチェスプエルトリコ)との統一戦となったこの試合も5回TKO勝ちを収め、遂にWBC王座防衛回数を20の大台に乗せるのと同時にWBO王座も獲得した。その後、WBO王座は防衛することなく返上。
1998年3月7日に行われたWBC王座21度目の防衛戦はWBA王者ロセンド・アルバレスニカラグア)との王座統一戦。前評判ではロペスが圧倒的に有利とされたが、2回にWBA王者の強打を受けてしまい、アマ・プロ通じて初のダウン。辛くも立ち上がり、試合続行に応じたものの、本来の調子とは程遠かった。そして、迎えた7ラウンド2分に、偶然のバッティングで右眉毛からまぶたまでをカットし出血する。レフェリーはドクターの診断を待つ間1ポイント減点を宣言、ドクターは続行の判断をし、残り50秒はファイトという掛け声とともにそのままの続行している。その7ラウンドの残り50秒の間に医師と隣に座っていたWBCホセ・スレイマン会長(ちなみにその隣はドン・キング)と傷の深さなど語ったとされる。ラウンド終了後間近で傷を見たトレーナーのナチョ・ベリスタインは、続行不可能と判断、ロペス本人はお決まりのガードを高く掲げるいつものポーズで8R始まりに戦闘続行の意思を示したものの、ナチョは同国人のスレイマン会長に状況を訴える。この間会場では観客同士の小競り合いが起こるほど騒然とした状態となる。スレイマンは医師の意見をもう一度確認した後、偶然のバッティングによる負傷判定と決断し結果は1-1(67-64、63-68、66-66)薄氷を踏む引き分け。お互いに王座防衛には成功したものの、ロペスにとっては生涯初のダウンを奪われた末に完璧な全勝レコードに初の引き分けを挟むことで傷をつける形になってしまった。しかしながら無理を押して続行して、相手をKOまでいかなくてもダウンを奪うなど明らかな優位をつければよかったわけであり、この時点で、ナチョとスレイマンの同国人によって引き分けでもまだマシとの判断があったとされロペス優遇という結果に議論が巻き起こることになった。
同年11月13日、アルバレスと再戦。アルバレスが体重超過により計量で失格となり、WBA王座を剥奪された中での試合となった。ここでもロペスは5Rに右目尻を6Rには左目尻をカットし、10Rにはレフェリーのリチャード・スティールがドクターストップか負傷判定かと医師に迫るくらいに顔の腫れ切り傷、出血が酷かったため、大苦戦を強いられる。最後は2-1(116-114、116-112、113-115)の12回判定勝ち。WBC王座22度目の防衛に成功すると同時にWBA王座も獲得した。その後、WBA王座は返上。
1999年IBFライトフライ級王者ウィル・グリッグスピー米国)への挑戦が決定したのに伴い、9月29日付で正式にWBC世界ミニマム級王座剥奪。9年弱保持し続けてきた王座に別れを告げた。
1999年10月2日、グリッグスビーに挑戦し、12回判定勝ち。プロ、ちょうど50戦目にして2階級制覇を達成したが、その後は負傷の影響で1年以上試合から遠ざかる。
2000年12月2日、1年2か月ぶりの初防衛戦。元IBF世界ミニマム級王者でもあるラタナポン・ソーウォラピンタイ)とマンダレイベイ・イベント・センターで対戦し、3回TKO勝ち。
2001年9月29日、2度目の防衛戦では、ミニマム級時代に戦わなかった最後の対立王者である、元IBF世界ミニマム級王者ゾラニ・ペテロ南アフリカ)と対戦し、8回TKO勝ち。この試合を最後に2002年、王座在位のまま現役を引退。1つの引き分けこそあったものの、アマ・プロ通じ、1度の敗戦も経験することなくリングを去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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