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ラリー・コーコラン : ミニ英和和英辞書
ラリー・コーコラン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ラリー・コーコラン : ウィキペディア日本語版
ラリー・コーコラン[らん]

ローレンス・"ラリー"・コーコラン(Lawrence J. "Larry" Corcoran, 1859年8月10日 - 1891年10月14日)は、1880年代に活躍したメジャーリーグベースボールの野球選手。主なポジションは投手アメリカ合衆国ニューヨークブルックリン生まれ。右投げ左打ち。主に現シカゴ・カブスで活躍しノーヒットノーラン3回を達成、左右両方で投げたことがあるなど、特異な記録を残している。
== 球歴 ==
コーコランは1880年、20歳の時に当時キャップ・アンソンが監督をしていたシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)に入団、フレッド・ゴールドスミスと共にシカゴの二枚看板となった。1年目から63試合に登板し、43勝14敗、防御率1.95、リーグ最多の268奪三振の活躍を見せた。同年8月19日の試合では、強豪のボストン・レッドキャップス(現アトランタ・ブレーブス)を相手に自身最初のノーヒットノーランを達成した。
2年目の1881年には31勝でリーグの最多勝利投手となる。更に次の年の1882年には27勝、防御率1.95でナショナルリーグの最優秀防御率投手となった。同年9月20の試合では、ウースター・ルビーレッグスを相手に自身2度目となるノーヒットノーランを達成している。1883年と1884年にもそれぞれ34勝、35勝を上げ、最初の5年間は全て25勝以上、4シーズンで30勝以上を挙げるという活躍ぶりだった。1884年シーズンが始まる前、コーコランは新興のユニオン・アソシエーションシカゴ・ブラウンズと一度入団契約を結んだが、ホワイトストッキングス側がよりよい条件を提示してこの契約を破棄させた、というエピソードも残っている。
元々コーコランの利き腕は右手だったのだが、1884年6月10日にクリーブランドと対戦した試合で、初めて投げる腕の左右を変えて投球した。また6月16日バッファロー・バイソンズとの試合では、中継ぎとして登板した際に投げる腕の左右を変えながら4イニング登板したという記録も残している。これは現在でも、1試合の中で腕の左右を変えながら投げた記録としてはメジャー最長の登板回数である。またコーコランの3度目のノーヒットノーランが、1884年6月27日プロビデンス・グレイズとの試合で達成されている。3度のノーヒットノーランは、後年1908年にサイ・ヤングが達成するまで、メジャーリーグ唯一の記録であった。
デビューから5年間シカゴの主力として活躍したコーコランだったが、1885年にひどい腕の怪我に見舞われ、それまでの過度の登板の影響もあり登板回数が激減した。1885年から引退するまでの1887年までの3年間では、わずか14試合にしか登板できなかった。27歳で野球選手を引退した後は腎臓病とアルコール依存症を患い、4年後の1891年にニュージャージー州で死去。32歳の若さだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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