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ラシードゥッディーン : ミニ英和和英辞書
ラシードゥッディーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラシードゥッディーン : ウィキペディア日本語版
ラシードゥッディーン[ちょうおん]

ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー()(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Abū al-Khayr Hamadānī)、, 生没年1249年 - 1318年)はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥアブー・サイード治世のもとで活躍した政治家。ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。また、ユネスコの「世界の記憶」に2007年登録された「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)を著作している。イランの歴史上、「ハージャ・ラシードゥッディーン」 خواجه رشیدالدین Khwāja Rashīd al-Dīn、「医師ラシードゥッディーン」 رشیدالدین طبیب Rashīd al-Dīn Ṭabīb などと呼ばれた。

== 生涯 ==
イラン中西部ハマダーンユダヤ教徒系の家系に生まれ、医師としてイラン各地を遊学した後、アバカの時代にイルハン朝の宮廷で典医として出仕した。彼自身はシャーフィイー法学派を信奉するムスリムであった。その後もアルグンマフムード・ガザンのもとに仕えた。ガザンがハーンとして即位した後の1297年に宰相(ワズィール)サドルッディーン・ザンジャーニーが処刑されると、サアドゥッディーン・サーヴェズィーとともに登用されて宰相となり、ガザンが強力に推進していたイルハン朝の改革政策を補佐した。
ガザンの没後はオルジェイトゥの治世でも引き続き財務全般など国政の大部分掌握したが、政敵のとの政争がつづき、アブー・サイードがハーンに即位して間もなく、オルジェイトゥ病没時の診断を誤診と咎められ、1318年、ついにはオルジェイトゥのシャーベット係として近侍していた長男イブラーヒームとともに処刑された(その他に次男の・ムハンマドがいた)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラシードゥッディーン」の詳細全文を読む




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