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ライン交響曲 : ミニ英和和英辞書
ライン交響曲[きょく, くせ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

交響 : [こうきょう]
 (n,vs) reverberation
交響曲 : [こうきょうきょく]
 【名詞】 1. symphony 
: [ひびき]
  1. (io) (n) echo 2. sound 3. reverberation 4. noise 
: [きょく, くせ]
 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity

ライン交響曲 ( リダイレクト:交響曲第3番 (シューマン) ) : ウィキペディア日本語版
交響曲第3番 (シューマン)[こうきょうきょくだい3ばん]

ロベルト・シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(''Symphonie Nr. 3 Es-Dur op. 97 "Rheinische"'' )は、1850年に作曲され、1851年2月6日デュッセルドルフにおいてシューマン自身の指揮によって初演された。シューマンが完成した交響曲としては、実質的には4番目で最後のものにあたるが、2番目のものは後年改訂出版されて「第4番」とされたため、第3番に繰り上がった。「ライン」の副題はシューマンが付けたものではない。演奏時間約35分。
日本初演は1927年9月25日日本青年館にて近衛秀麿新交響楽団によって行われた。シューマンの交響曲のなかで最も早く日本で演奏された。
== 作曲の経緯など ==

*1847年5月に長男を失い、11月、盟友であったフェリックス・メンデルスゾーンの死によって、シューマンは打撃を受けた。しかし、フェルディナント・ヒラーの後任としてドレスデンの男声合唱団の指揮をすることになり、シューマンはこれを混声合唱団に拡大するなどして力を注いだ。
*1849年5月にドレスデンで革命蜂起が起こると、シューマンは心情的には自由主義の立場にあったが、精神障害や家族の安全のこともあってマクセンに避難する。この間、革命的な音楽や行進曲を作曲している。さらに、8月のゲーテ生誕100年記念祭に向けて、『ファウストからの情景』の作曲をすすめ、ピアノ曲集『森の情景』を完成させた。
*1850年、再びヒラーの後任としてデュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれる。9月に同地に到着したシューマン夫妻は盛大な歓迎を受けた。シューマンはライン川沿岸を好んで散歩し、9月と11月にはライン川上流に位置するケルンにも足を延ばした。壮麗なケルン大聖堂に感銘を受け、折しもこの時期に挙行されたケルン大司教ヨハネス・フォン・ガイセル枢機卿就任式の報に接し、交響曲の霊感を得たという。シューマンは同11月にチェロ協奏曲を完成させると、ただちに交響曲の作曲に取りかかって、12月には完成している。「ライン」の副題は、シューマン自身が付けたものではないとしても、シューマンがライン川の川下りやそれを取り巻く環境に大いに触発され、その音楽もまた関連が深いことは間違いなく、第1楽章(ローレライ)、第2楽章(コブレンツからボン)、第3楽章(ボンからケルン)、第4楽章(ケルンの大聖堂)、第5楽章(デュッセルドルフカーニヴァル)と関係が深くなっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「交響曲第3番 (シューマン)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Symphony No. 3 (Schumann) 」があります。




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