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ライアン・ギグス : ミニ英和和英辞書
ライアン・ギグス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ライアン・ギグス : ウィキペディア日本語版
ライアン・ギグス

ライアン・ジョゼフ・ギグス OBEOBE honour for United hero Giggs Ryan Joseph Giggs OBE, 1973年11月29日 - )は、ウェールズカーディフ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。プロサッカープレイヤーとしてデビューから現役引退まで一貫してマンチェスター・ユナイテッドFCに所属し、現在は同クラブのルイ・ファン・ハール監督の下でアシスタントコーチを務めている。
現役時代のポジションミッドフィールダー(ウィンガー)であり、長年に渡りレッド・デビルズで背番号11を背負った。同クラブの歴史において13回のプレミアリーグ優勝、3回のリーグカップ優勝を経験した唯一の選手であり、アレックス・ファーガソン監督が3度指揮したチャンピオンズリーグの決勝戦全てに出場したただ一人の選手である。クラブでの公式戦出場記録は963試合(168ゴール)であり、長年破られることのなかったサー・ボビー・チャールトンの記録である758試合を上回り歴代最多である〔2008年5月21日に行われたチャンピオンズリーグ決勝への出場を以てサー・ボビー・チャールトンの持つクラブの歴代最多出場記録(758試合)を更新したSpot-on Giggs overtakes Charlton 〕。
イングランドのサッカー史上で最も多くのタイトルを獲得した選手であり〔Ryan Giggs wins BBC Sports Personality of the Year 2009 〕、トップリーグで13回の優勝を経験した。またプレミアリーグ史上初めてPFA年間最優秀若手選手賞を2度受賞した選手であり、2007年には最多得票でPFAの1997年から2007年までのベストイレブンに選出され〔Teams of the Century 〕、2003年にはプレミアリーグ10周年記念のベストイレブンにも選出された。
2007年6月2日に代表チームから引退するまでウェールズ代表としても活躍し、その当時最年少で代表デビューを飾った選手であった。
フットボールリーグの歴代の名選手100人(Football League 100 Legends)に選ばれており、2007年にはOBEを受勲し、2005年にはイングランドのサッカーの殿堂入りをしている。
== 生い立ち ==
にあるセント・デイヴィッズ病院にて、カーディフRFCでプレイするラグビー選手の父、ダニー・ウィルソンと母、リン・ギグス(現在はリン・ジョンソン)の子「ライアン・ジョセフ・ウィルソン」として生を受けた。カーディフ西部郊外エリーで育ったが、母親の両親のもとで過ごすことが多く、ペンダーベイン地区の家の外の道でよくサッカーをしていたという。ギグスが6歳であった1980年に父がスウィントンRLFCと契約を結び、家族はマンチェスターへ引っ越すことになった。祖父母ととても仲が良かったギグスにはとてもショックな出来事であったが、週末や学校が休みであった時にはよく家族とカーディフに戻っていた。また、ギグスは混血(父方の祖父がシエラレオネの出身)であり、子どものころに人種差別を受けたと話している〔Ryan Giggs: You must speak out on abusers 〕。
マンチェスターに移ってから、マンチェスター・シティFCのスカウトであったデニス・スコットフィールドが教えていた地元のクラブであるディーンズFCでプレイするようになった。ディーンズで初めて出場した試合では、ストレットフォード・ヴィクスに0-9で敗れたが、試合を見ていた多くの人は、ギグスがその日最も良いプレイをしていたと話した。スコットフィールドの薦めによりマンチェスター・シティアカデミーに入ったが、ギグスはサルフォード・ボーイズサルフォードの選抜チーム)でのプレイも続け、1987年にはアンフィールドで行われたグラナダ・スクールズ・カップの決勝に進出している。ギグスはサルフォードでキャプテンを務め、優勝トロフィーをリヴァプールFCのチーフスカウトを務めるロン・イェーツから受け取った 。イェーツもまたギグスの才能に感銘を受けていたが、その時にはすでにマンチェスター・ユナイテッドの話を受けてしまっていた。
地元で新聞などを販売し、オールド・トラッフォードの管理人を努めていたハロルド・ウッドはディーンズでのギグスのプレイをよく見ており、マンチェスター・ユナイテッドのトップチームのスタッフにギグスのことを話していたが、ウッド自身がアレックス・ファーガソンに直接伝えるまで、実際に視察をしようとはしなかった。ウッドはユナイテッドの監督であったファーガソンに、「今はシティに在籍しているが、彼を逃せば後悔することになる。」と、話した。それを受けたファーガソンはディーンズの試合にスカウトを派遣し、スカウトを納得させるのに十分なプレイを見せたギグスは1986年のクリスマスシーズンにトライアルを受けるように薦められた。トライアルを受ける前にギグスは〔1999年までユナイテッドのトップチームが使用していたユナイテッドのトレーニンググラウンド。現在マンチェスター・ユナイテッド・アカデミーのホームスタジアムの一つとして使用される他、地元サルフォードのラグビーチームのトレーニンググラウンドとしても使用されている。英語版のページ The Cliff。〕で行われたサルフォード・ボーイズ対ユナイテッドU-15の試合に出場しハットトリックを決めており、ファーガソンはクラブハウスからその試合の様子を見ていた。
ギグスの14歳の誕生日である翌年の11月にファーガソンはスカウトのジョー・ブラウンとともにギグスの家を訪ね、2年間のアソシエイテッド・スクールボーイの契約を提示し、練習生契約ではなく、3年以内にプロ契約を提示することを約束した。ギグスはすぐに契約を結びたがったが、母であるリンがこれまで良くしてくれたシティに確認してからと言い、確認後契約に至った。
ギグスは1989年にウェンブリー・スタジアムで行われたドイツ代表との試合に臨むイングランド学生代表のメンバーに選ばれた(その当時はライアン・ウィルソンを名乗っていた)。ライアンは両親の離婚から2年が経った16歳の時に、「僕は僕の母親の子どもであるとみんなに知ってもらうために」と、姓を変更した〔Ryan Giggs 〕。U-21イングランド代表のコーチであったローリー・マクメネミーは、ギグスがイングランド代表としてプレイする資格があるかを調べたが、ギグスにはイングランド人の祖父母がおらず、ウェールズ代表でプレイする資格しか有していなかった
〔この規定は1990年当時のもので、2009年UEFAの規定が改定され、ある国で5年間以上の教育を受けた選手はその国の代表になれることになった。もし現在の規定が1990年当時にあったならばギグスはイングランド代表になることができたことになるが、現実には1990年当時にはその規定はなく、彼にはウェールズ代表しか選択肢はなかった。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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