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ヨハネス・ケプラー : ミニ英和和英辞書
ヨハネス・ケプラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ケプラー : [けぷらー]
 (n) Kepler (astronomer), (n) Kepler (astronomer)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨハネス・ケプラー : ウィキペディア日本語版
ヨハネス・ケプラー[ちょうおん]

ヨハネス・ケプラー(''Johannes Kepler'' 、1571年12月27日 - 1630年11月15日)はドイツ天文学者天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。一方で数学者自然哲学者占星術師という顔ももつ。欧州補給機(ATV)2号機の名前に彼の名が採用されている。
== 生涯 ==
ケプラーは1571年12月27日、ドイツのシュヴァーベン地方にある自由都市ヴァイル・デア・シュタット (:en:Weil der Stadt)にて居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラーの間に生まれた長男。天然痘に呪われ、4歳の時に天然痘で視力を落とし、晩年には天然痘で妻子を失った〔「ビジュアル百科 世界史1200人」136頁、入澤宣幸(西東社)〕。プロテスタントであり、宗教的対立の高まっていた当時の神聖ローマ帝国において、苦難を強いる原因の一つとなった。ケプラーの家は貧しかったものの、奨学金を得て神学校に進学したのち、1587年テュービンゲン大学に入学し数学を学んだ。〔『数学と理科の法則・定理集』158頁。アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)〕1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった。1596年には「宇宙の神秘」を出版し、この中でニコラウス・コペルニクスの唱えた地動説を全面的に支持した。天文学者の中でコペルニクスの説を全面的に支持したのはケプラーが初めてであり、これを読んだガリレオ・ガリレイはケプラーにその考えを支持する旨の手紙を送った〔『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p160 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像〕。1597年にはバーバラ・ミューラーと結婚。しかし翌1598年にはグラーツを治めていたオーストリア大公フェルディナント2世がグラーツからのプロテスタントの聖職者と教師に町からの退去を命じ、ケプラーは失職する。
そんな折、1599年ティコ・ブラーエ (1546-1601) に助手(ケプラーがいうには助手でなく共同研究者)としてプラハに招かれ、ケプラーはこれを受諾しプラハへと移った〔『COSMOS 宇宙』第1巻 カール・セーガン 旺文社 1980年10月25日 初版 p.114〕。ティコは大観測家であり、1576年から1597年の21年間、デンマーク(現スウェーデン領)のヴェン島にウラニボリ天文台を建設して天空の観測を続け、さらにプラハでも観測を続けていた。この観測データは望遠鏡のなかった当時、肉眼で観察されたものとしては最高の精度を持っており、正確で膨大な観測データはのちに紆余曲折ののちケプラーの手に入り、ケプラーの法則発見の基礎となった。一方でティコは自らのデータから地動説を支持する証拠を見つけることができず、自ら手を加えた天動説を提唱していた。
1601年にティコが亡くなると、ケプラーはブラーエの後任のルドルフ2世宮廷付占星術師として引き続き仕え、ティコの残した観測データをもとに研究を続けた。しかし、ティコの遺族にルドルフ2世が支払うはずだった観測データの代金はほとんど支払われず、ケプラーとティコの遺族のあいだには争いが起きた。1609年、代表作とされる「新天文学(Astronomia Nova)」を執筆した〔「オックスフォード科学の肖像 ヨハネス・ケプラー」p87 オーウェン・ギンガリッチ編集代表 ジェームズ・R・ヴォールケル著 林大訳 大月書店 2010年9月21日第1刷〕。「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。1611年には3人の子のうちの一人と妻のバルバラが死去し、1612年にパトロンであったルドルフ2世が亡くなると、ケプラーはプラハを離れ、オーストリアリンツに州数学官の職を得た。1613年にはズザナ・ロイティンガーと再婚し、1618年にはケプラーの第三法則を発表したが、1620年から1621年には故郷ヴュルテンベルグにおいて母カタリーナが魔女裁判に掛けられたため、その地にとどまって裁判と弁護に奔走した。1621年に無罪判決を勝ち取るとリンツに戻ったが、1626年には反乱軍によってリンツが被害を受けたためウルムへと移り、ここで1627年にはルドルフ表を完成させた。1630年レーゲンスブルクで病死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハネス・ケプラー」の詳細全文を読む




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