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ヤヴーヌティス : ミニ英和和英辞書
ヤヴーヌティス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤヴーヌティス : ウィキペディア日本語版
ヤヴーヌティス[ちょうおん]
ヤヴーヌティス(Jaunutis、文字通りに「若者」を意味する;洗礼名イオアンヨハネあるいはイヴァン1300年 - 1366年後)は父のゲディミナスが死んだ1341年から兄のアルギルダスケーストゥティスによって廃位された1345年までリトアニア大公に就いていた人物である。
ゲディミナスがなぜ長子でないヤヴーヌティスを己の後継者に選んだのかについては多くの憶測がある。ある人はヤヴーヌティスはゲディミナスの息子の内、異教徒(アルギルダス、ケーストゥティス)と正教徒ナリマンタスカリヨタスリュバルタス)間の妥協の後継と主張している 。別の人は、ヤヴーヌティスはゲディミナスの2番目の妻(この図式でいくと、ゲディミナスは異教徒と正教との娘と2回結婚したことになる )の長男と主張している。ゲディミナスの死以前にはヤヴーヌティスは資料にはあまり言及されていない.

ヤヴーヌティスの統治はごく僅かしか知られていない。その期間はドイツ騎士団ルドルフ・ケーニヒの無能さが幸いして全くの平和であった〔。彼の兄弟達はより積極的であった。アルギルダスプスコフを守りつつ、リヴォニア騎士団モジャイスクを攻撃した。ケーストゥティスはハールィチ・ヴォルィーニ継承戦争でリュバルタスを助けた〔。ブィホヴィエツ年代記はヤヴーヌティスはヤヴナという女性(ゲディミナスの妻で、その息子達の母と思われる)から補助してもらったことが言及されている。ヤヴナはヤヴーヌティスが公位を失ってから直後の1344年に死んでいる。もし本当にヤヴーヌティスが母親から補助を受けていたとするとしたら、異教の母親から影響を受けていた興味深い例となる〔 。しかしながら、より具体的な刺激となったのは、1345年のドイツ騎士団によって計画された大規模な「旅」(という名の十字軍遠征)だったらしい。ヤヴーヌティスはナリマンタスから支援を受けていたが、彼はジョチ・ウルスジャーニー・ベクの許へ、アルギルダスとケーストゥティスと戦うための同盟を申し込むために赴いている。ヤヴーヌティスはヴィリニュスに投獄されたが、脱出することに成功して義兄弟であるモスクワ大公セミョーンの許に亡命した。この際にイオアンという洗礼名を受けているが、援助を得ることには失敗した(ヤヴーヌティスの姉妹でセミョーンの妃であるアイグスタが同年に死んだからかもしれない) 。ヤヴーヌティスとナリマンタスはアルギルダスと和解した。ヤヴーヌティスはザスラウエ公になった。
ヤヴーヌティスは1366年頃に死んだと推定される。最後に言及されたのが1366年のポーランドとの条約であり、1367年リヴォニアとの条約には言及されていないからである〔。ヤヴーヌティスにはシメオナス・ザスラフスカスミカイラス・ザスラフスカスという2人の息子がいた。ミカイラスは1399年8月12日に死去するまでにザスラウエを統治した。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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