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メアリー・キダー : ミニ英和和英辞書
メアリー・キダー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メアリー・キダー : ウィキペディア日本語版
メアリー・キダー[ちょうおん]

メアリー・エディー・キダー(Mary Eddy Kidder、結婚後は Mary Eddy Kidder Miller、1834年1月31日-1910年6月25日)は、日本に派遣されて定住した最初の独身の女性宣教師である。フェリス女学院の創立者として知られる。
== 生涯 ==

=== 初期 ===
1834年にヴァーモント州ウィンダム郡ワーズボロという山間の村に、父ジョン・エディ・キダーとキャサリン・ターナーの間に生まれた。
メアリーは地元の小学校で学んだ後、1850年からタウンシェンド・アカデミー英語部に在籍した。その間に、回心して、北ワーズボロの会衆派教会の一員になった。1852年の秋にサックストンズ・リヴァー・アカデミーの古典部在籍した。キダーは妹のマルヴィナと共に、マンソンの町に下宿した。
1856年に母キャサリンが亡くなり、翌年ジョンが再婚した。後の同僚、S・R・ブラウンが1853年以来牧師業の傍ら、教会近くのオーバンのスプリングサイドで男子校を経営していた。キダーはこの学校の教師になり、ブラウンの教会の会員になった。
キダーが着任して、2年後、1859年ブラウンはマリア・マニヨンキャリー・アドリアンスの二人を伴い日本宣教に旅立った。キダーは一行をニューヨーク港に見送った。
1860年秋から、キダーはニュージャージー州オレンジ女学校で教え始めたが、翌年閉校になる。しかし、数人に生徒を集めてオレンジに2年間留まった。1860年に妹にオレンジの学校を譲り、キダーはブルックリンのミス・ラニーの学校で教え始めた。
1867年、33歳の時、キダーはブラウンから一時帰国の知らせを受け、日本宣教に志願するように誘いを受けた。そして、1869年2月にアメリカ・オランダ改革派教会海外伝道局のジョン・メイソン・フェリスの面接を受けて、ブラウンらの推薦により、日本の宣教師に任命された。
そして、1869年にオランダ改革派の宣教師としてブラウン夫妻と共に来日した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「メアリー・キダー」の詳細全文を読む




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