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ムーアズクリーク橋の戦い : ミニ英和和英辞書
ムーアズクリーク橋の戦い[むーあずくりーくきょうのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クリーク : [くりーく]
 【名詞】 1. (1) cleek (golf) 2. (2) creek 3. (P), (n) (1) cleek (golf)/(2) creek
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ムーアズクリーク橋の戦い : ウィキペディア日本語版
ムーアズクリーク橋の戦い[むーあずくりーくきょうのたたかい]

ムーアズクリーク橋の戦い()は、アメリカ独立戦争中の1776年2月27日、ノースカロライナウィルミントン近くで行われた戦闘である。ノースカロライナ植民地パトリオット(独立推進派)がスコットランド系のロイヤリスト(英国王忠誠派)に勝利した結果、アメリカ独立のための政治的支援体制が確立し、その軍隊への徴兵数を増すことになった。
ノースカロライナ植民地におけるロイヤリストが地元から徴兵する動きは、レキシントン・コンコードの戦いの報せが入った時から始まり、同じようにパトリオットの方も大陸軍と民兵隊の組織化を始めた。1776年1月、イギリス軍がこの地域に遠征を計画しているという報せが入り、総督のジョサイア・マーティンはその到着に合わせてロイヤリストの民兵隊を結集させるよう命令した。パトリオットの民兵と大陸軍の部隊がその合流を阻止すべく動員され、幾つかの経路が封鎖されたので、装備がお粗末なままのロイヤリストは、ウィルミントンから約18マイル (29 km) 北のムーアズクリーク橋でパトリオットの部隊との衝突を強いられた。
2月27日早朝に行われた短時間の戦闘で、スコットランド系のロイヤリストが刀を振りかざし橋を渡って突撃したが、マスケット銃の一斉射撃に遭った。ロイヤリストの指導者1人が戦死し、その他捕虜になった者も多く、全軍が散り散りになった。その後の数日間多くのロイヤリストが逮捕され、それ以上徴兵しようという動きを封じた。その後ノースカロライナ植民地が軍事的脅威に曝されたのは1780年になってからであり、1781年にイギリス軍のチャールズ・コーンウォリスがこの地域でロイヤリストを徴兵しようとしても、ムーアズクリーク橋の戦いに関する記憶とその後の動きによって動けなくなっていた。
== 背景 ==

=== イギリス側の徴兵 ===
1775年初期、13植民地の中で政治と軍事の緊張が高まり、ノースカロライナ植民地の総督ジョサイア・マーティンは、ノースカロライナ内陸部に入っているスコットランド系開拓者と、同調的な世直し党(当初は腐敗した植民地管理に対抗した集団)、および海岸部で不満を抱いているロイヤリストと結びつけて、大規模なロイヤリスト軍を構築し域内のパトリオット同調者に対抗させようとした〔Russell, p. 79〕。マーティンはロンドンに1,000名徴兵の許可を請願して拒絶されたが、ロイヤリストの支援を糾合する動きを続けた〔Meyer, p. 140〕。
これと同じ頃、スコットランド出身のアラン・マクリーンが北アメリカ中でスコットランド系ロイヤリストを徴兵する許可を国王ジョージ3世に働きかけて成功していた。4月には、北アメリカに住む退役したスコットランド系兵士を徴兵して、ロイヤル・ハイランド移民隊と呼ばれる1個連隊の結成許可を王室から取得した〔Fryer, p. 118〕。そのための1個大隊はニューヨークケベックおよびノバスコシアの各植民地を含む北方の植民地で徴兵することとし、2つめの大隊は数多い元兵士が土地を与えられているノースカロライナなど南部の植民地で徴兵することとされた。マクリーンは6月にトマス・ゲイジ将軍から任務を与えられた後、6月17日に行われたバンカーヒルの戦いにも参戦した古参士官のドナルド・マクロードとドナルド・マクドナルドを南部に派遣して、そこでの徴兵活動を推進させた。これらの徴兵担当者は、有名なジャコバイトのヒロイン、フロラ・マクドナルドの夫であるアラン・マクドナルドが既に北アメリカで活発に徴兵活動を行っていることにも気付いていた〔Fryer, pp. 121–122〕。徴兵担当者がノースカロライナのニューバーンに到着したことで、現地の安全委員会の委員は疑念を抱いたが、彼等を逮捕することまではしなかった〔Demond, p. 91〕。
1776年1月3日、マーティンはヘンリー・クリントン将軍の指揮で2,000名以上の部隊が南部に派遣される計画があり、その到着は2月半ばに予測されていることを知った〔Meyer, p. 142〕。マーティンは徴兵担当者達に徴兵した兵士を2月15日までに海岸部まで送ることを期待しているという伝言を送り、アレクサンダー・マクリーンにはその地域での協調行動を取らせるためにクロスクリーク(現在のノースカロライナ州ファイエットビル)に派遣した。マクリーンはマーティンに5,000名の世直し党と1,000名のスコットランド出身者を組織し装備させられるという楽観的な報告を行った〔〔Wilson, p. 23〕。
2月5日に世直し党とスコットランド系の指導者がクロスクリークで会合した時に、その後の進め方について意見の不一致があった。スコットランド系は部隊を集結させる前にイギリス軍が実際に到着するのを待ちたいと考え、一方世直し党は即座の行動を望んだ。世直し党は5,000名の部隊を起ち上げられると主張していたのでその見解が主流となったが、スコットランド系は700名から800名を起ち上げられるだけと考えていた〔。この部隊が2月15日に集結したとき、総勢は約3,500名になったが、その後の数日で勢力は急速に減っていった。多くの兵士はイギリス軍と出逢って護衛されることを期待しており、海岸に向かう途中で戦わなければならない可能性を考えてはいなかった。3日後に行軍しているとき、ドナルド・マクドナルド准将は1,400名ないし1,600名の兵士を率いていたが、大半がスコットランド系兵士だった〔Wilson, p. 35〕〔。この勢力は日が重なるにつれて脱走する者の数が増加しさらに減っていった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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