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ミシェル・ド・モンテーニュ : ミニ英和和英辞書
ミシェル・ド・モンテーニュ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミシェル・ド・モンテーニュ : ウィキペディア日本語版
ミシェル・ド・モンテーニュ[ちょうおん]

ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne , 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者モラリスト懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。
== 略歴 ==
ペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城でユダヤ系フランス人として生まれた。実家は商業を営み富裕であった。父は政治にも熱心でボルドーの市長を務めたことがある。母方はセファルディムユダヤ人の家系であった。ミシェルは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語を用いて育てられた。ラテン語は当時の学問に必須の知識であったとはいえ、このような教育法は特異であった。
トゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等法院(パルルマン)に務めていたときに、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエティーと親しくなった。エティエンヌは1563年に死去したため、モンテーニュは深い悲しみに沈んだ。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人である。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続した。1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。
法官辞任後、カトリックのシャルル9世アンリ3世から侍従(非常勤職)に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリ(アンリ4世)の侍従にも任ぜられた(アンリは即位前の1584年、1587年にモンテーニュの城館を訪れたことがある)。フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。
主著『エセー ''Essais''』(随想録)を1580年に刊行した(初版、2巻本)。なおエセーの語源の意味は<試み>である。
1580年から1581年にかけてモンテーニュはフランス、ドイツオーストリアスイスを経てイタリアに旅し、さまざまなエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記した(モンテーニュの死後に原稿が見つかり、1774年に『旅日記''Journal de voyage''』 という題名で出版された)。
1581年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して1585年まで(2期)務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。任期の終わり頃から、ボルドーではペストが流行し、モンテーニュもペストを避けて他所に逃れた(1586-1587年)。
モンテーニュは、アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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