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マリヤ・シュヴァルノヴナ : ミニ英和和英辞書
マリヤ・シュヴァルノヴナ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マリヤ・シュヴァルノヴナ : ウィキペディア日本語版
マリヤ・シュヴァルノヴナ
マリヤ・シュヴァルノヴナ(、1158年頃 - 1205年 / 1206年3月19日〔Мария Шварновна //
Большая биографическая энциклопедия 〕)はウラジーミル大公フセヴォロドの最初の妻である。正教会聖人
==生涯==

マリヤはヤス人( / オセット人の旧称)の公女であるとされているが、後世の史料に基づきモラヴィア出身とみなす説もある〔Всеволод-Димитрий Юрьевич Большое Гнездо // ブロックハウス・エフロン百科事典 — СПб., 1890—1907.〕。前説の、マリヤがカフカス出身とする場合、夫となるフセヴォロドとの出会いはおそらく1169年か1170年のグルジアであると推測される。なおマリヤをカフカス出身とする説中の一説によれば、マリヤの3人の姉妹も、アンドレイ・ボゴリュブスキー(ru)ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチヤロスラフ・ウラジミロヴィチの3人のルーシの公に嫁いだという〔Карамзин Н. М. История государства российского. — Т. III. : М. Наука, 1991. — С. 535, прим. 62.〕。いずれにせよ、夫のフセヴォロドがウラジーミル大公となった1176年には既に結婚しており、1178年には2人の間に最初の子が生まれている。マリヤは4人の娘・8人の息子を産んだ。息子のうちの4人がのちにウラジーミル大公位に就いている。
大公妃となったマリヤは書籍・学問・芸術を庇護し、その信心深さと聡明さによって、後世にはキエフ大公妃オリガやビザンツ皇后テオドラ(共に正教会の聖人)と並び称されることになった。末子のイヴァン(ru)の誕生(1197年)後に重病を発し、修道院の建設の誓いを立てた1200年に〔Княгинин-Успенский монастырь // ブロックハウス・エフロン百科事典 — СПб., 1890—1907.〕、その誓いに従いウラジーミルに、後世にはマリヤを称える名を冠されることになる修道院(ru)(現ロシアでと呼ばれている。転写と直訳:ウスペンスキー(生神女就寝)・クニャージニン(公妃)・モナストィリ(修道院)。)を建設した。
マリヤという名は、死の18日前に剃髪式()を行い、修道名として得た名前である

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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