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マフムード・カーシュガリー : ミニ英和和英辞書
マフムード・カーシュガリー[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

マフムード・カーシュガリー : ウィキペディア日本語版
マフムード・カーシュガリー[かー]

マフムード・カーシュガリー(、Maḥmūd ibnu 'l-Ḥussayn ibn Muḥammad al-Kāšġarī、? - ?)は、かつて中央アジアに存在したカラハン朝の学者。歴史上最古のアラビア語・テュルク語の辞典『テュルク語集成(ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク)』を著した人物である〔。2008年国際連合教育科学文化機関(UNESCO)によってカーシュガリーの事跡を記念する国際年に制定されている〔UNESCO to name 2008 and 2009 after famous Turks (2016年1月閲覧)〕。
== 生涯、著作 ==
マフムード・カーシュガリーは11世紀のカシュガルで誕生したが〔梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、75頁〕、彼の生涯に関する詳しい記録は残されていない〔間野『中央アジアの歴史』、131-132頁〕。東カラハン朝の君主ムハンマドがマフムードの祖父だと考えられており〔柴田「カシュガリー」『アジア歴史事典』2巻、166頁〕〔梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁〕、父のフサインはバルスハン地方の貴族であり〔、後にバルスハンからカシュガルに移住した〔。
マフムードはカラハン朝の王位継承権を巡る争いの中で父と近親者を毒殺され、近隣のテュルク系民族の下を転々とした〔間野英二「トルコ・イスラーム社会とトルコ・イスラーム文化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)、97頁〕。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の国境地帯から中国の辺境部に至る地域を遍歴した後、アッバース朝の首都バグダードを訪れた。5年の月日をかけて辞典を編纂し、1077年(もしくは1083年)に『テュルク語集成』をカリフムクタディーに献呈した〔。『テュルク語集成』のほかに文法書『チュルク語文法宝典』も著したが、この書は散失した〔
バグダードで作成された『テュルク語集成』の原本の写本はアッバース朝の滅亡後にエジプトシリアマムルーク朝の支配領域に移され、早くとも1266年に写本のコピーが作成された〔。写本は何度か持ち主を変えた後、マムルーク朝の滅亡後にオスマン帝国の首都イスタンブルへとわたる〔。その後写本は古書店に並び、写本を買い取った蔵書家のアリー・エミリーによって1917年から1919年の間に3巻本として活字出版された〔。これまで『テュルク語集成』と著者であるカーシュガリーの存在は長らく忘れられていたが、写本の出版によって再び注目を集め、多くの学者の研究の対象となる〔。『テュルク語集成』の写本は写真版とカラーファクシミリ版が出版され、トルコ語ウズベク語現代ウイグル語英語に訳された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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