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マイセン辺境伯 : ミニ英和和英辞書
マイセン辺境伯[まいせんへんきょうはく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
辺境 : [へんきょう]
 【名詞】 1. remote region 2. frontier (district) 3. border(land) 
: [さかい]
 【名詞】 1. border 2. boundary 3. mental state 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

マイセン辺境伯 : ウィキペディア日本語版
マイセン辺境伯[まいせんへんきょうはく]

マイセン辺境伯Markgraf von Meißen)は、中世ドイツの有力な諸侯及びその称号の一つ。その領邦は現在のザクセン州の一部にあたる。
== 概要 ==
東フランク国王ハインリヒ1世928年から929年のスラブ地方への出兵に際し、エルベ川に面した丘陵の上に城塞を建造した。この城は近くを流れる小川マイザ川にちなんで命名された。この城の麓には、その世紀の内に街が開け、同じ名(マイセン)で呼ばれるようになった。965年神聖ローマ皇帝オットー1世がマイセン辺境伯を任命したとされるが、文献上の証拠は968年のものが最も古い記録である。この年、マイセンの城山は、新たに設けられたマイセン司教区の司教のための司教座にもなった。1068年からはこれに加えて、マイセン城伯が設けられた。この頃からマイセン城伯領は発展を遂げ、マインヘリンク家を興す事になる。
これに対してマイセン辺境伯領は965年にゲロ辺境伯領の分割によって創設され、11世紀にはナイセ川まで、後には南に拡大しエルツ山地にまでその版図を拡げた。983年リクダックがマイセン辺境伯に任命されたのは確実で、985年以降はエッケハルディン家がこの位を継承した。1046年からはヴァイマール=オーラミュンデ伯家1067年ブルノン家と続いたが、1089年にブルノン家のエクベルト2世叙任権闘争に関わって解任された。同年、義弟に当たるヴェッティン家ハインリヒ1世が後継となり、マイセン辺境伯領はそのまま維持される事となった。その後の辺境伯達、特にコンラートオットーディートリヒは領土を拡げ強化を図った。
ハインリヒ3世は、1243年/1255年にまず、嫁資としてアルテンブルク周辺のプライセンラント地方を獲得した。次いで叔父のハインリヒ・ラスペが子供を遺さずに1247年に亡くなったことから起こったテューリンゲン方伯領をめぐる遺産相続争いに、1264年に打ち勝った。こうして領土拡大は成功したが、子のアルブレヒト2世と孫のフリードリヒ1世との間で内戦が発生、一時はテューリンゲンを失う事になった(後に奪回)。この内戦のさなかにドイツ王アルブレヒト1世はマイセン辺境伯領を自らの版図に収めようと試みたが、1307年ルッカの戦いで挫折した。
その後、ヴェッティン家の数人の男系血縁者による共同統治となり、1382年1445年にはマイセン辺境伯領、テューリンゲン方伯領、およびプライセンラントがその対象となった。一方、この地方の他の家系はしばしば断絶し、ヴェッティン家は結婚や購入、あるいは戦争によってこうした土地を手に入れてその影響地域を拡大、1426年にはマイセン城伯の権限をも手に入れた。15世紀末のヴェッティン家の勢力はヴェラ川オーデル川の間の地域にまで程度の差こそあれ拡大している。
1423年にマイセン辺境伯フリードリヒ4世にザクセン=ヴィッテンベルク公の位が与えられた。更に同年、ザクセン選帝侯にも選ばれた(フリードリヒ1世)。これにより、ザクセン選帝侯領内のマイセン辺境伯領は、独立した領邦国家としての性質を失った。フリードリヒ1世の孫のエルンストアルブレヒトの兄弟間でなされた1485年ライプツィヒ分割は、長期にわたってザクセンとテューリンゲンを分けている。同時に、ヴェッティン家もエルンストの家系(エルネスティン家)とアルブレヒトの家系(アルベルティン家)に分かれていった。
本来のマイセン辺境伯領は、現在のマイセン郡とほぼ同じであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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