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ホワイトストーンヒルの戦い : ミニ英和和英辞書
ホワイトストーンヒルの戦い[ほわいとすとーんひるのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ホワイトストーンヒルの戦い : ウィキペディア日本語版
ホワイトストーンヒルの戦い[ほわいとすとーんひるのたたかい]

ホワイトストーンヒルの戦い()は、1863年にアメリカ合衆国ダコタ準州で起きた対スー族戦争の最終段階の戦闘である。9月3日から5日、アメリカ陸軍アルフレッド・サリー准将の指揮する部隊が、インディアンの集落を攻撃した。その集落に居たインディアンは、ヤンクトナイ族、サンティ族、テトン・スー族だった。サリーは女性と子供を含め300ないし400人のインディアンを殺し、あるいは負傷させ、捕虜にした。サリーの部隊の損失は約60名だった。サリーは1864年にもスー族に対する作戦を続けることになった。
== 背景 ==
1862年のダコタ戦争で、サンティ・スー族(ダコタ族あるいは東部スー族とも呼ばれた)が敗北し、懲罰を恐れたスー族約4,000人はミネソタ州からダコタ準州に逃亡し、そこでヤンクトナイ、ヤンクトン、ラコタあるいはテトンなど他のスー族と合流した。スー族戦士はミネソタ州の文民や軍事目標に対して小規模の襲撃を続けていた。

1863年半ば、ミネソタ州のジョン・ポープが指揮するアメリカ陸軍は、ダコタ準州東部でスー族に対して2つの大きな軍事遠征を行っていた。それら遠征の目的は1862年の戦争の再現を阻止し、ダコタ東部での白人入植を促進し、ミズーリ川を通ってモンタナの金鉱原への道を保護することだった〔Clodfelter, Michael. ''The Dakota War: The United States Army versus the Sioux, 1862-1865''. Jefferson, NC: McFarland & Co. Publishers, 1998, p. 80〕。
ヘンリー・ヘイスティングス・シブリー准将(初代ミネソタ州知事)が2つに分けたその作戦の片方を指揮した。 ミネソタからミズーリ川まで陸路2,000名の兵士を率い、7月にスー族とビッグマウンド、デッドバッファロー、ストーニーレイクと3回の戦闘を行った。スー族に大きな損失を出させたわけではなかったが、ミズーリ川の西岸までスー族を追い出し、ジャーキーなど冬の備えやティピーの多くを含むインディアンの財産の多くを破壊した〔Clodfelter, pp. 113-114〕。
作戦の第2の部隊はアルフレッド・サリー准将が率い、1,200名を率いてミズーリ川を遡り、シブリー隊と落ち合って、2つの部隊でスー族を潰すことが想定されていた。しかしサリー隊は、川の水位が低かったために蒸気船でミズーリ川を遡るのが遅れた。サリー隊が8月半ばに現在のノースダコタ州ビスマーク近辺に到着したとき、シブリー隊は既にミネソタ州に戻っていた〔State Historical Society of North Dakota. ”Sibley and Sully Expeditions of 1863 – History – Part 3: The Expeditions.” http://www.history.nd.gov/historicalsites/sibleysully/histoyr3.html, accessed 31 March 2012〕。サリーの1,200名の部隊には、デイビッド・ウィルソン大佐が指揮するアイオワ第6騎兵隊、ロバート・ファーナス大佐が指揮するネブラスカ第2騎兵隊が入り、さらに山岳地榴弾砲8門と斥候隊、輜重隊が付いていた〔Keenan, Jerry. “The Battle of Whitestone Hill.” Wild West, June 2008, Vol. 21, No. 1, pp 44-49〕。その兵士は騎兵が通常使うカービン銃ではなく、長射程ライフル銃で武装しており、スー族の大半はマスケット銃、猟銃あるいは弓矢でしか武装していなかったので、決定的に有利な条件にあった〔Clodfelter, pp. 140, 143〕。

一方で、シブリーがミズーリ川西岸に追い出していたスー族の幾らかが東岸に戻り、バッファローの肉を得て冬の食料を補おうとしていた。サリーは南東方面でインディアンを探した。9月3日、サリーはある湖近くで殺されたばかりのバッファローの残骸を多く発見し、その日の午後には斥候でサンティ族との混血であるフランク・ラフランボワズが、10マイル (16 km) 前方に400戸の村があると報告した。ラフランボワズは一時スー族戦士の隊に捕まったが解放されており、それはスー族が戦闘を求めていないことを示していた〔"White Stone Hill Massacre September 3, 1863." http://thpo.standingrock.org/programs/display.asp?program_id=THPO&pg=White Stone Hill, accessed 2 April 2012; United States War Department. ''The War of the Rebellion: A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies'', Series 1, Vol. 22, pp. 557-558〕。サリーはその前衛隊であるA・E・ハウス少佐が指揮するアイオワ第6騎兵隊大隊300名に、インディアンの宿営地を取り囲み、逃げさせないようするよう命令した。輜重隊の護衛で4個中隊を残し、主力部隊を率いて10マイルを速駆けで1時間で進んだ〔United States War Department. The War of the Rebellion: A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies, Series 1, Vol. 22, pp. 557-558〕。

ハウス少佐とそのアイオワ第6騎兵隊大隊が、インディアンの宿営地を偵察し、サリーが援軍を連れて前進してくるのを待っていると、スー族の代表が白旗を持って出てきて、和平を保つことと、狩猟にのみ興味があることを主張し、彼らの酋長数人の降伏も提案した。ハウスはそのような事態についての指示を受けていなかったので、インディアンの宿営地にいる全部隊の無条件降伏を要求した。ハウスはインディアンが行き詰っていることを想定し、女性が宿営地を畳んで逃げ出すまで時間が必要であろうと考えた。ハウスも援軍が到着するまで何もできない状態だった〔Keenan〕。
この宿営地ではおそらくカットヘッド・バンドを含むヤンクトナイ族がスー族のなかでも最も人数の多い部族であり、他にサンティ族、ハンクパパ族(おそらく売り出し中の指導者シッティング・ブルがいた)、シハサパ族すなわちブラックフット・スー族がいた。1つの小屋に5人ないし10人の人が居るとして、400戸の小屋では2,000ないし4,000人が居り、その中には500ないし1,000人の成人男性が居ると推計された。女性、子供、老人は安全のためにミシシッピ川西岸に残されているはずだった。スー族はこの戦闘で950名の戦士がいたと言っていた〔Bray, Kingsley M. “Teton Sioux: Population History, 1655-1881” ''Nebraska History – Summer 1994'', p.166; Clodfelter, p. 129〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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