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ホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド : ミニ英和和英辞書
ホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド : ウィキペディア日本語版
ホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド

ホベルトことホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド(Roberto Julio de Figueiredo, 1979年2月20日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ)
== 来歴 ==
AAポンチ・プレッタでプロキャリアをスタート。
2004年アビスパ福岡へ加入し〔 アビスパ福岡〕、豊富な運動量と気迫溢れるプレーで中盤を掌握〔【J2:第2節 福岡 vs 水戸 レポート】 J's GOAL (2005年3月12日)〕。2005年は度々キャプテンマークを巻いて試合に臨み、J2準優勝及びJ1昇格に貢献した。2006年は正式にクラブ初となる外国人キャプテンを務めた〔〔。2007年も福岡との契約を結び〔、2月に発表された同年の新体制にも選手として名を連ねていたが〔2月のトピックス / 2007年度 チーム体制のお知らせ アビスパ福岡〕、新監督のピエール・リトバルスキーは、キャンプにおいて「(福岡には)左サイドバックをできる日本人選手がいない」と判断し〔 日刊スポーツ (2007年2月7日)〕、急遽新外国籍選手の獲得を決め、外国籍選手枠に空きを作るために〔ホベルトを放出〔2月のトピックス / ホベルト選手移籍のお知らせ アビスパ福岡〕。登録を抹消された〔登録選手 追加・変更・抹消のお知らせ Jリーグ (2007年2月9日)〕(この後、オーストラリア人〔当時、オーストラリアは既にアジアサッカー連盟(AFC)に加盟していたが、JリーグにおいてAFC加盟国選手を対象に別枠での選手登録を認める「アジア枠」は未施行だったため、通常の外国籍選手枠を割いた。〕DFアルビン・チェッコリを獲得〔)。帰国時には福岡空港に退団を惜しむ100人以上のサポーターが詰め掛け、福岡での人気の高さを示した〔不可解な福岡ホベルトの退団劇 日刊スポーツ (2007年2月11日)〕。その後は無所属のままブラジルで調整を続けていた〔。
2007年7月、守備再建を図る〔 日刊スポーツ (2007年7月18日)〕大分トリニータへ加入。MFエジミウソンとボランチでコンビを組み、対人の強さを発揮〔 Jリーグ〕。ブランクを感じさせず中盤の底からチームを引っ張った〔 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)〕。2008年には優れた危険察知とバイタルエリアのスペース管理で〔大分トリニータは何が変わったのか? ナビスコカップ決勝 大分2−0清水 スポーツナビ (2008年11月4日)〕バランスの取れるハードワーカーとして〔【J2日記】鳥栖:ホベルト加入会見 J's GOAL (2009年8月28日)〕チームを統率し〔大分キャプテン候補にホベルト指名 日刊スポーツ (2008年10月29日)〕、エジミウソンと共に堅守を構築した〔原博実「核心を突く」2人の助っ人ボランチが枝村消した / ナビスコ杯 日刊スポーツ (2008年11月2日)〕〔。同年のナビスコ杯ではMVP級の働きで〔クラブ初タイトル獲得に大きく貢献。
2009年も好プレーを見せていたが、同年4月のJ1第6節神戸戦において右膝内側側副靱帯断裂し、治療に専念するため同月末に帰国〔【トリニータ】ホベルト一時帰国、治療専念 大分合同新聞 (2009年4月25日)〕〔。ホベルト不在の大分は深刻な不振に見舞われ、同年7月にクラブはFWフェルナンジーニョを緊急補強。外国籍選手枠の兼ね合いによってホベルトは籍を大分に残したまま、フェルナンジーニョとの入れ替わりで出場選手登録を抹消された〔 スポーツ報知 (2009年7月4日)〕〔登録選手 追加・変更・抹消のお知らせ Jリーグ (2009年7月17日)〕〔。この時点では復帰の目処が立っていないとされていたが〔〔8月上旬に再訪日し、練習にも参加〔大分ホベルト外国人枠の問題で鳥栖移籍 日刊スポーツ (2009年8月27日)〕。同月大分では、FWウェズレイが突如現役引退を表明し〔外国籍選手枠に空きが出たことから〔登録選手 追加・変更・抹消のお知らせ Jリーグ (2009年8月7日)〕、ホベルトの再登録を図ったが、Jリーグにおいては登録抹消済の選手について同一シーズン中の再登録を認めていなかったため断念〔。翌2010年の仮契約を結んだものの〔【トリニータ】ホベルト、来季の仮契約結ぶ 大分合同新聞 (2009年8月25日)〕、2009年シーズン終了までは他クラブでのプレーを余儀なくされた〔。
2009年8月末にサガン鳥栖期限付き移籍し〔 サガン鳥栖 (2009年8月27日)〕〔、ボランチで攻守の中心として活躍〔サガン25人体制 MF金が新加入、ホベルト退団 佐賀新聞 (2010年1月17日)〕。中盤のバランスを整え攻撃の起点を作る〔【J2:第38節 鳥栖 vs 福岡】福岡側レポート J's GOAL (2009年9月7日)〕ホベルトの加入によって、鳥栖は守備の安定感と攻撃の力強さを増し、リーグ終盤のJ1昇格争いへ向けて勢いづいた〔9/26(土) J2リーグ戦:第42節 鳥栖 vs 東京V プレビュー Jリーグ (2009年9月25日)〕。2010年1月、契約満了により鳥栖を退団〔 サガン鳥栖 (2010年1月16日)〕。また、大分は経営難に陥っており、人件費縮小のためホベルトとの契約を解除〔【トリニータ】決意新たJ1への戦い 大分合同新聞 (2010年1月19日)〕。同年のJリーグ開幕後も無所属となっていた。
2010年5月、前年まで鳥栖を率いていた岸野靖之が監督を務める横浜FCへ加入〔登録選手追加・変更・抹消のお知らせ Jリーグ (2010年5月21日)〕〔。持ち前の高い守備力〔 神奈川新聞カナロコ (2010年5月18日)〕に加え、パスの流れを円滑にする絶妙なポジション取りでチームの力を引き出した〔【J2:第14節 横浜FC vs 鳥栖】レポート J's GOAL (2010年5月23日)〕。
2011年、FC東京へ完全移籍〔ホベルト選手 移籍加入決定のお知らせ FC東京 (2010年12月30日)〕。キャンプ中盤までは主力の一角に入り強い存在感を放っていたが〔FC東京、10人で得た一体感と浮上へのヒント 味スタ決戦! 春の東京ダービー祭り スポーツナビ (2011年5月6日)〕、右膝負傷のため同年4月に帰国〔ホベルト選手の帰国について【至急】 FC東京 (2011年4月30日)〕。その後の再合流には至らず公式戦出場は1試合に留まった。同年11月、契約解除に合意し退団〔ホベルト選手 契約解除のお知らせ FC東京 (2011年11月4日)〕。
2012年1月に訪日し、横浜FCの練習に参加〔新加入永井&堀之内 カズに刺激「もろ大スター」 スポーツニッポン (2012年1月15日)〕。復調が認められたため、2月末になって同クラブへ再加入した〔ホベルト選手加入のお知らせ 横浜FC (2012年2月28日)〕。第1節からフル出場したものの〔選手出場記録 Jリーグ (2012年11月11日)〕、負傷の影響が残っていたために再離脱。懸命のリハビリを続けたが〔カズ 4戦ぶり出場で快勝に貢献「もっと圧倒したい」 スポーツニッポン (2012年7月2日)〕、思うように回復しなかったことから同年6月限りで現役を引退した〔ホベルト選手現役引退のお知らせ 横浜FC (2012年6月30日)〕。そして7月に引退セレモニーが開催された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホベルト・ジュリオ・デ・フィゲイレド」の詳細全文を読む




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