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ベニー・レナード : ミニ英和和英辞書
ベニー・レナード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ベニー・レナード : ウィキペディア日本語版
ベニー・レナード[ちょうおん]

ベニー・レナードBenny Leonard、男性、1896年4月17日 - 1947年4月18日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。本名はベンジャミン・レイナーニューヨーク州ニューヨーク市イーストサイド出身。元世界ライト級王者。スピーディーなフットワーク、多彩なコンビネーション・ブローとカウンターを駆使したテクニシャン。ライト級史上最強と評する声も多い。
== 来歴 ==

=== デビューから王座獲得 ===
当時としては卓越した技巧で、“ゲットーの魔術師”と謳われた名王者。ニューヨークのイーストサイドに、貧しいユダヤ系移民の子として生まれる。ユダヤ系に対する差別もあって、日毎街頭で喧嘩に明け暮れた。15歳でプロボクサーとなった。当初反対していた両親が、ファイトマネーの1ドル銀貨を見るや大賛成に転じたという逸話がある。
1911年10月14日にプロデビューしたがMickey Finneganに3RTKO負けを喫した。そのKO負けへの反省から、巧みな防御とスピーディなフットワークで打たせずに打つスタイルを確立するが、キャリアの初期には依然として“イーストサイド・パフ” (パフは女の化粧用具)と揶揄される非力なボクサーだった。しかし、新しいマネージャーとなったビリー・ギブソンのアドバイスを受け、カウンターとコンビネーション・ブローを磨いて多くのKO劇を生み出し、端正なマスクと相俟ってリングの人気者となった。
1911年10月28日、Young Joe Stanleyとの2戦目は2RKO勝ちをはじめとして1912年2月24日まで14戦するが12勝(10KO)2NCと勝利を続ける。その後は敗北もあるもののかなりの勝利をつかんでいく。
1916年7月28日、89戦目にフレディ・ウォルシュと対戦して判定負けを喫する(その後9月4日チャーリー・ホワイトから彼は世界ライト級王座を獲得している)。この試合は記者の予想が割れる試合であったが大多数はウォルシュを指示した。判定も同様となった。だが試合内容は6Rにウォルシュがレナードの顎に最高のパンチを叩き込みレナードをダウンさせたが、彼は立ち上がり最後まで戦い判定負けという結果になった。その後19戦戦い17勝(8KO)2敗。
1917年5月28日、109戦目にフレディ・ウォルシュと対戦するが、この試合レナードは技巧派フレディ・ウォルシュの持つ世界ライト級王座に照準を定めるが、レナードと対戦経験のあるウォルシュがタイトル戦を拒んだため、「たとえノンタイトル戦でも両者の体重がリミット内であり、かつKOで勝てば、タイトルが移動する」というルールの盲点を利用し、ウォルシュとノンタイトル戦で対決した。レナードはボディ攻めでウォルシュのガードを下げさせ、9回に強烈な右でKO勝ちを飾った。この勝利により、ノンタイトル戦による王座獲得が実現した(ウォルシュはレフェリーがカウントを行わずにレナードのKO勝ちを宣したことを不当として、無判定を主張したが採り上げられず)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベニー・レナード」の詳細全文を読む




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