翻訳と辞書
Words near each other
・ プレザンス
・ プレザンス国際空港
・ プレザンス空港
・ プレザンス郡
・ プレザンツ郡 (ウェストバージニア州)
・ プレザントコロニー
・ プレザントタップ
・ プレザントバレー郡区 (アイオワ州キャロル郡)
・ プレザントバレー郡区 (アイオワ州セロゴード郡)
・ プレザントバーグ
プレザントヒルの戦い
・ プレザントビル駅
・ プレザントリーパーフェクト
・ プレザント・プレインズ
・ プレザント・プレインズ駅
・ プレザント・ポイント (ニュージーランド)
・ プレザント郡区 (アイオワ州アパヌース郡)
・ プレザント郡区 (アイオワ州カス郡)
・ プレザント郡区 アパヌース郡 (アイオワ州)
・ プレザージュ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

プレザントヒルの戦い : ミニ英和和英辞書
プレザントヒルの戦い[ぷれざんとひるのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

プレザントヒルの戦い : ウィキペディア日本語版
プレザントヒルの戦い[ぷれざんとひるのたたかい]

プレザントヒルの戦い(プレザントヒルのたたかい、英:Battle of Pleasant Hill)は、南北戦争レッド川方面作戦の一部として1864年4月9日ルイジアナ州プレザントヒル近くで行われた戦闘である。北軍はナサニエル・バンクス少将、南軍リチャード・テイラー少将が率いた。

この戦闘は実質的に前日に近隣で行われ、日没頃に暗闇のために終わっていたマンスフィールドの戦いの延長だった〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 603. Report of Brigadier-General Mosby M. Parsons, C.S. Army, dated 13 April 1864 at his Camp near Mansfield, La.〕。夜の時間が敵対関係の短い合間になった。4月9日、テイラーは新しく補強されたプレザントヒルの北軍に意欲的な襲撃を掛け、初めは優勢だったが、トマス・J・チャーチル准将のアーカンソー師団がその右側面を襲われて撃退された。戦闘後、北軍は士気が落ちて、指揮官に対する不信が残ったままであり、グランデコールを経由してアレクサンドリアまで引き上げた。
この戦闘は南軍が戦場から撤退したので公式には北軍の勝利である。しかし、バンクスとその軍隊は戦闘後間もなく撤退したので、どちらが実際の勝者かについて多くの議論があった。
== 背景 ==
1864年4月8日、マンスフィールドの戦いで南軍が成功を収めた後、北軍はその夜と翌朝にかけて後退して、プレザントヒルに陣を布いた。
マンスフィールドの戦いはマンスフィールドの町の南東約3マイル (5 km) のサビーン交差点で起こった。プレザントヒルはサビーン交差点から南東16マイル (26 km) に位置した。
南軍の援軍が4月8日の遅くに到着した。チャーチルのアーカンソー師団はマンスフィールドに午後3時半に到着し〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 604. Report of Brig. Gen. James C. Tappan, C.S. Army, commanding Churchill's division, of engagement at Pleasant Hill — dated 12 April 1864.〕、モスビー・パーソンのミズーリ師団2,200名はマンスフィールドに午後6時に到着した〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 602. Report of Brig. Gen. Mosby M. Parsons, C.S. Army — dated 13 April 1864 at Camp near Mansfield, La.〕。この2個師団のどちらもマンスフィールドの戦いには参戦しなかった〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 596. General Orders of Maj. Gen. R. Taylor – dated 11 April 1864 at Mansfield, La.〕が、プレザントヒルの戦いでは重要な役割を果たすことになった。
北軍側にも援軍が到着した。第16及び第17軍団の分遣隊を指揮するアンドリュー・J・スミス少将が4月8日遅く、暗闇になった頃にグランデコールに到着し、プレザントヒルから約2マイル (3 km) で宿営した〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 307. Report of Maj. Gen. Andrew J. Smith, U. S. Army, commanding detachments of Sixteenth and Seventeenth Army Corps Red River Campaign — dated 26 September 1865 at Saint Louis, Mo.〕。
4月9日の朝、ウィリアム・B・フランクリン少将が輜重隊をグランデコールに進めるよう命令した。輜重隊は午前11時にプレザントヒルを出発し、多くの大砲も運んだ。フランクリンの騎兵隊(アルバート・リンドリー・リー准将の指揮)の大半と第13軍団がそれに付いていった〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, pp 304-312. Report of Maj. Gen. Andrew J. Smith, dated 26 September 1865 at Saint Louis, Mo.〕。この中にはウィリアム・H・ディッキー大佐(4月8日に負傷)が指揮するアフリカ軍団と第13軍団トマス・E・G・ランサム(やはり4月8日に負傷)の分遣隊、このときはロバート・A・キャメロン准将が指揮した部隊が含まれていた〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, pp 267-268. Report of Brig. Gen. Thomas E.G. Ranson, U.S. Army, commanding detachment of the Thirteenth Army Corps, of operations April 6-8, dated 11 June 1864 at New York City.〕〔''The War of the Rebellion'', Vol. XXXIV, p. 268. Report of Brig. Gen. Robert A. Cameron, U.S. Army, 11 April, 1864.〕。輜重隊の歩みは鈍く、その日の主要戦闘が始まった時には、プレザントヒルからまだ数マイルしか進んでいなかった。参謀長のチャールズ・P・ストーン准将達がその日一日キャメロンにプレザントヒルまで戻らせるよう試みたが失敗した。キャメロンは、戻れと言う命令書を受け取らなかったと主張した〔。バンクスはキャメロンがフランクリンから受け取った命令について、正確には知らなかったと考えられる。
北軍はマンスフィールドの戦いで大砲を18門失っていた〔Pollard, p. 495.〕。これらが翌日のプレザントヒルでは北軍に向けられた。南軍のジャン・ジャック・アレクサンドル・アルフレッド・ムートン准将が4月8日のマンスフィールドの戦いで戦死していたので、カミーユ・J・ド・ポリニャック准将がプレザントヒルではムートン部隊を指揮した。
ミシシッピ川流域戦線で南軍の総司令官エドマンド・カービー・スミス少将はシュリーブポートにおり、4月9日午前4時にテイラーからの伝言を受け取った。それはマンスフィールドの戦いについて報せていた。カービー・スミスはその後馬でプレザントヒルまで45マイル (72 km) を移動したが、到着したときは暗くなってからであり、戦闘に間に合わなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「プレザントヒルの戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.