翻訳と辞書
Words near each other
・ フワヒン
・ フワヒン空港
・ フワヒン郡
・ フワヒン駅
・ フワヨ・テンボ
・ フワライド
・ フワランポーン駅
・ フワル・フシャエータ
・ フワワ
・ フワンテ
フワン・ラモーン・ヒメーネス
・ フワン・ルルフォ
・ フワージャ
・ フワーリズミー
・ フン
・ フン (楽器)
・ フンアフプーとイシュバランケー
・ フンアプ
・ フンイエン省
・ フンイン省


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フワン・ラモーン・ヒメーネス : ミニ英和和英辞書
フワン・ラモーン・ヒメーネス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フワン・ラモーン・ヒメーネス ( リダイレクト:フアン・ラモン・ヒメネス ) : ウィキペディア日本語版
フアン・ラモン・ヒメネス[ちょうおん]

フアン・ラモン・ヒメネス(Juan Ramón Jiménez Mantecón〔Mantecónは母の人名#スペイン語圏の名前参照)。〕、1881年12月24日 - 1958年5月29日)はスペイン詩人。彼が近代詩で成し遂げた最も大きな業績は、純粋詩の確立である。1956年ノーベル文学賞を受賞した。フワン・ラモーン・ヒメーネスとも。
== 伝記 ==
ヒメネスは、1881年12月24日スペイン南部アンダルシア州ウエルバ県の県都ウエルバ近郊のモゲール:en:Moguer)という町で、父ビクトル・ヒメネス、母マリア・プラ・マンテコン〔の第4子・次男として生まれた。彼は家業を継ぐためにセビリア大学で法律を学んだがその道には進まず詩に傾倒し、1900年、アンダルシア出身の先輩詩人フランシスコ・ビリャエスペーサ:en:Francisco Villaespesa)に誘われてマドリードに赴き、モデルニスモ文学を代表する詩人ルベン・ダリオの強い影響を受けた。同年、芸術的分野へ進むことに理解を示してくれた父親を亡くしたことで精神に不調を来たしたため、フランスボルドーの精神療養施設に入所し、その期間にフランス詩の知識を深めた。彼は療養生活中にもモデルニスモ詩人たちと交流を続け、詩作を続ける。1905年には、帰郷して静養を続けた。後にこの時の経験を元に散文詩集『プラテーロとわたし:es:Platero y yo)』を執筆する。1911年、健康を回復してマドリードに戻り、文学者活動をさらに旺盛に進める。
1916年1913年に知り合って以来、恋愛関係にあったプエルトリコ出身のセノビア・カンプルビー:en:Zenobia Camprub%C3%AD)と結婚し、アメリカを旅行する。彼女は、ラビンドラナート・タゴールの翻訳者として著名でもある。結婚を契機として自らに確かな個性を見出し、これより以後、韻律を廃した自由詩“純粋詩”の確立へと自覚的に向かう。
1936年スペイン内戦が勃発すると、夫妻はキューバ、アメリカに逃れた。1946年、ヒメネスが心臓病を患い、妻セノビアと関係の深いプエルトリコに落ち着いた。ヒメネスは後にメリーランド大学カレッジパーク校の、スペイン語スペイン文学の教授となった。1951年以降、プエルトリコに定住する。1956年、彼はノーベル文学賞を受賞したが、3日後、その報せが届いた日に妻が子宮癌で死去した。彼自身は2年後の1958年5月29日、妻と同じ病院で亡くなり、妻とともに故郷モゲールに葬られた。
彼の作品中、故郷での静養の間、常に彼を背中に乗せて歩いた愛ロバ・プラテーロや故郷の風景、様々な人々との交流を描いた『プラテーロとわたし』が世界的にも最も有名である。また妻と共同でアイルランドの作家の戯曲の翻訳なども手がけた。彼は存命中、夥しい数の詩を発表し、詩集になったものだけでも40余冊を数える。
1982年より発行されていた2000ペセタ紙幣にヒメネスの肖像が使用されていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フアン・ラモン・ヒメネス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.