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フレデリック・ジェームス・アーチャー : ミニ英和和英辞書
フレデリック・ジェームス・アーチャー[あーち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アーチ : [あーち]
 (n) arch (bridge), arch dam

フレデリック・ジェームス・アーチャー ( リダイレクト:フレッド・アーチャー ) : ウィキペディア日本語版
フレッド・アーチャー[あーち]
フレデリック・"フレッド"・ジェームズ・アーチャー(''Frederick James Archer'', 1857年1月11日 - 1886年11月8日)は、19世紀のイギリスを代表する騎手
決断力があり、力強い騎乗ぶりで人気を博し〔、8084回騎乗して2748勝を挙げた。クラシック競走通算21勝、1874年から13年連続のリーディングジョッキー(最多勝利騎手)獲得など群を抜く成績を挙げた。1886年に29歳という年齢で拳銃自殺を遂げた。
== 生涯 ==
1857年1月11日 イングランドチェルトナムのセントジョージ病院で生まれる。父ウィリアムは騎手兼調教師を務め、翌1858年のグランドナショナルでリトルチャーリーに騎乗して勝利している。1860年頃 父が兵役に就いている間、チェルトナムから南に3マイル離れたプレストバリーに居住し騎乗の訓練を受ける。初めて騎乗した馬はチョーというギャロウェイ種の馬だったと伝えられる。
1867年、11歳の時にニューマーケットに出てマシュー・ドーソンに弟子入りし、以降ドーソンの元で技術を磨いた。この時点でアーチャーの体重は60ポンド後半(約30kg)程度であったといわれる。翌年10月には非公式の競走ながら12歳で騎手としてデビューを迎え、公式競走に初出走した1870年秋に障害競走で初勝利を挙げた。その後すぐに頭角を現すことはなかったが、最初に大レースを勝ったのは、15歳の時、1872年のロシア皇太子ハンデキャップである。翌1873年は騎乗数を前年の倍以上に伸ばし、勝利数も前年の27から一挙に107まで伸ばした。翌1874年にはアトランティック(Atlantic)に騎乗して2000ギニーに優勝し、17歳にしてクラシック競走を初制覇すると、この年147勝を挙げて初のリーディングジョッキーも獲得した。この頃のアーチャーの体重は6ストーン(約38キロ)だった。翌年には172勝を挙げてイギリスの年間最多勝記録を更新。スピナウェイ(Spinaway)に騎乗して1000ギニー連覇、さらにエプソムオークスにも優勝した。1876年には年間勝利数を史上初となる200に乗せ、1877年にはドーソンが管理するシルヴィオ(Silvio)に騎乗しエプソムダービーセントレジャーステークスに優勝。弱冠20歳にしてクラシック競走完全制覇を果たした。以降もクラシック競走に次々と優勝、「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」と言われるほどの活躍を見せた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フレッド・アーチャー」の詳細全文を読む




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