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フランコーム : ミニ英和和英辞書
フランコーム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フランコーム ( リダイレクト:オーギュスト・フランショーム ) : ウィキペディア日本語版
オーギュスト・フランショーム[ちょうおん]
オーギュスト=ジョゼフ・フランショームまたはフランコームAuguste-Joseph Franchomme1808年4月10日 リール - 1884年1月21日 パリ)はフランスチェリスト作曲家・音楽教師。
== 略歴 ==

リールの音楽学校でピエール・ボーマンらに学んだ後、パリ音楽院でジャン=アンリ・ルヴァスールやルイ=ピエール・ノルブランに師事して、入学から早くも1年で首席を射止める。
さまざまなオーケストラと共演するようになり、1828年にはサント・シャペルのチェリストに就任した。ジャン=デルファン・アラールや、ハレ管弦楽団の創始者となったチャールズ・ハレらとともにアラール四重奏団を結成。この四重奏団は、団員がみな職業音楽家によって構成されているという点で、当時の室内楽アンサンブルとしては稀有の団体であった。また、パリ音楽院演奏協会の創立にも名を連ねた。
フェリックス・メンデルスゾーン1831年パリを訪れると親交を結び、フレデリック・ショパンとも親しくなった。ショパンは、チェロピアノのための《ジャコモ・マイヤベーアの歌劇「悪魔ロベール」の主題による協奏的大二重奏曲》をフランショームと合作し、フランショームはショパンの《華麗なるポロネーズ》作品3のチェロ・パートを手直ししている。ショパンは《チェロ・ソナタ ト短調》作品65をフランショームに献呈した。
1856年イングランドを訪問したのを除けば、フランショームは滅多にパリから離れず、パリ楽壇の中心人物になった。1843年には、ジャン=ルイ・デュポールの息子から、総額2万2千フランストラディヴァリウス「デュポール」を買い取り、また1730年製のストラディヴァリウス「デ・ムンク」も入手している。1846年には、恩師ノルブランの後任として、パリ音楽院チェロ科の主任教授に就任し、ジュール・デルサールやエルネスト・ジレらを輩出した。
フランショームは当時の最も著名なチェリストであり、弓奏法の技術を洗練させるのに寄与した。フランショームの左手は、器用で正確な演奏と、表現力の豊かさで名高かった。(ジャン=ピエールジャン=ルイの)デュポール兄弟によって発展を遂げたフランスのチェロ楽派に、フランショームは、優雅さ、甘美さ、軽やかさという特色をもたらしたのである。
作曲家としては55曲のチェロ作品を遺しており、《12の奇想曲》作品7や、アドリブで2台めのチェロが必要な《12の練習曲》作品35、《チェロ協奏曲》作品33など、ピアノを伴奏にするもの、室内楽やオーケストラを伴奏にするものと、多種多様な作品が含まれる。
1884年に音楽界への貢献が認められ、レジオン・ドヌール勲章を授与された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オーギュスト・フランショーム」の詳細全文を読む




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