翻訳と辞書
Words near each other
・ フォッリーナ
・ フォッロ
・ フォッローニカ
・ フォツィス
・ フォティオス
・ フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)
・ フォティオス・アポストレリス
・ フォティオス・カンタグルウ
・ フォティオス・コントグルー
・ フォティス・アポストレリス
フォティス・カンタグルウ
・ フォティス・コントグルー
・ フォティニア
・ フォティニア属
・ フォティーノ
・ フォテムスチン
・ フォデラ
・ フォデラ・ギターズ
・ フォデ・マンサレ
・ フォト


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フォティス・カンタグルウ ( リダイレクト:フォティス・コントグルー ) : ウィキペディア日本語版
フォティス・コントグルー
フォティス・コントグルー(, 本名:, フォティオス・アポストレリス1895年 エヴァリ() - 1965年 アテネ)は、ギリシャ人の作家・画家・イコン画家。日本語媒体では英語の影響を受けた転写としてフォティオス・カンタグルウとの表記もみられる。
20世紀になり、それまで西欧の影響を受けていた正教会のイコンに、ビザンティンイコン表現を復興させる流れが起きたが、コントグルーはその先駆者として、イコン画家としても活躍した〔C.カヴァルノス著、高橋保行訳『正教のイコン』教文館 1999年 ISBN 9784764263543〕。
== 生涯 ==
フォティス・コントグルーは父:ニコラオス・アポストレリス()と母:デスピナ・コントグルー()のもとに生まれた〔〕。
フォティスは母デスピナと、叔父:ステファノス・コントグルーに育てられたが、ステファノスは近隣のアギア・パラスケヴィ修道院の修道院長であった。少年時代をフォティスは修道院、海で、漁師達と共に過ごした。1913年アテネ芸術学校Athens School of Fine Arts)に入学。1915年から、スペインフランスポルトガルアンゴラといった各地への旅行に多くの時間を割いた。のちにパリに移住。
しかしながら、すぐにフォティスは小アジアに戻り、家族を訪れる。そこで1922年の事件に直面し、ギリシャに難民として戻る。1923年に、フォティスはアトス山修道院で幾ばくかの時を過ごし、そこでビザンティンイコンの技法を見出した。2年後、フォティスと同じくエヴァリ出身のマリア・ハチカンブーリと結婚した。
1933年に、エジプト政府からコプト博物館で働くために招請される。しかしフォティスはアテネに留まり、アテネ大学で絵画のクラスを担当した。弟子の中には何人かの重要な近代ギリシャの画家が含まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フォティス・コントグルー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.