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フィオレラ・ボニセジ : ミニ英和和英辞書
フィオレラ・ボニセジ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


フィオレラ・ボニセジ : ウィキペディア日本語版
フィオレラ・ボニセジ
フィオレラ・ボニセジFiorella Bonicelli, 1951年12月21日 - )は、ウルグアイの元女子プロテニス選手。ペルーリマに生まれる。全仏オープン1975年の混合ダブルス部門、1976年の女子ダブルス部門に優勝し、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。WTAツアー大会では、シングルスの優勝はなかったが(準優勝2度)、ダブルスで1976年全仏オープンを含む2勝を挙げた。
ボニセジはペルーの首都リマで生まれたが、人生の大半をウルグアイの首都モンテビデオで過ごしてきた。9歳からテニスを始め、1968年からウルグアイの第一人者になる。1972年、ウルグアイは女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」に初参加を果たし、ボニセジは当地のエースとして活躍し始める。フェデレーション杯初参加から3年後の1975年、ボニセジは全仏オープンの混合ダブルスでトーマス・コッホブラジル)とペアを組み、決勝でハイメ・フィヨルチリ)&パム・ティーガーデンアメリカ)組を 6-4, 7-6 で破って初優勝を果たした。
1976年、ボニセジは全仏オープンで女子ダブルス優勝を達成した。パートナーは地元フランスゲイル・シェリフと組み、キャスリーン・ハーター(アメリカ)&ヘルガ・マストホフ西ドイツ)組を 6-4, 1-6, 6-3 で破った。こうしてボニセジは、全仏オープンで2つのタイトルを獲得し、ウルグアイのテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。
シングルスでのボニセジは、1978年全仏オープンのベスト8進出が自己最高成績である。ウィンブルドンでは1974年全米オープンでは1972年1977年の2度3回戦進出があった。1978年ウィンブルドンの1回戦でフランソワーズ・デュールに敗れた試合を最後に、ボニセジは26歳でテニス界の第一線から退いた。それから8年後の1986年、もう1度フェデレーションカップに参加したことがある。
フィオレラ・ボニセジの1976年全仏女子ダブルス優勝から32年後、2008年全仏オープンパブロ・クエバスが男子ダブルス優勝者になり、ウルグアイの男子テニス選手として初めてのグランドスラム・タイトルを獲得した。
== 参考文献 ==

* ''World of Tennis 1979'' (ワールド・オブ・テニス 1979) Macdonald and Jane's, London (1979) ISBN 0354-09068-2 国際テニス連盟が毎年発刊するテニス年鑑。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィオレラ・ボニセジ」の詳細全文を読む




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