翻訳と辞書
Words near each other
・ ピエルルイジ・カジラーギ
・ ピエルルイジ・コッリーナ
・ ピエルルイジ・コリーナ
・ ピエルルイジ・マルティニ
・ ピエルロ
・ ピエル・アドルフォ・ティリンデッリ
・ ピエル・シルヴィオ・ベルルスコーニ
・ ピエル・パオロ・パゾリーニ
・ ピエル・フェルディナンド・カジーニ
・ ピエル・フランチェスコ・キリ
ピエル・ブリアント
・ ピエル・ブリヤント
・ ピエル・ルイジ・チェルヴェッラーティ
・ ピエル・ルイジ・ベルサーニ
・ ピエレッタ (小惑星)
・ ピエロ
・ ピエロ (SEKAI NO OWARIの曲)
・ ピエロ (上木彩矢の曲)
・ ピエロ (田原俊彦の曲)
・ ピエロがPO


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ピエル・ブリアント ( リダイレクト:ピエル・ブリヤント ) : ウィキペディア日本語版
ピエル・ブリヤント

ピエル・ブリヤント仏語''Pierre Brillant''、「輝く石」の意、1931年12月16日 設立 - 1938年 改称)は、かつて存在した日本の軽演劇劇団である。「ピエル・ブリント」は誤りである。
== 略歴・概要 ==
1931年(昭和6年)12月16日東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草)に、「浅草オペラ館」が新規開場、その杮落としとして上演されたのが、劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演であった〔帝京平成大学公式サイト内の「笑い学講座」内の記事「第32回 エノケンロッパの登場1 」の記述を参照。〕。
「ピエル・ブリヤント」は、榎本健一二村定一のダブル座長の劇団で、2人は、旗揚げ前月の同年11月に、劇団「プペ・ダンサント」を武智豊子とともに脱退していた。同劇団には、榎本、二村、武智のほか、柳田貞一中村是好石田守衛花島喜世子藤野靖子永井智子松山千浪らが参加している〔。座員150人、オーケストラ部員25人、文芸部8人という、当時の日本最大規模の喜劇劇団であった〔国立音楽大学音楽学部音楽学学科作成の資料「エノケンさんに 会いにゆこう! 」(2004年11月)の記述を参照。〕。文芸部には菊谷栄らがいた。
榎本は「新作絶対主義」で、再演をよしとしなかったが、『カルメン』、『民謡六大学』などは例外であった〔。
1932年(昭和7年)7月、「ピエル・ブリヤント」は松竹専属になり、本拠地劇場は、浅草松竹座に変更になる。『月刊エノケン』第1号が、ピエル・ブリヤント文芸部の編集により、浅草松竹月刊エノケン社から発刊された。1935年(昭和10年)ごろまで発行されていた。同年、三益愛子が入団している。

1934年(昭和9年)5月3日、榎本と二村は、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)が製作した、山本嘉次郎監督の『エノケンの青春酔虎伝』に出演、同作が公開される。榎本にとっては、端役であった京都の中根龍太郎喜劇プロダクション以来、6年ぶりの映画、しかも初の主演である。1935年(昭和10年)公開の映画『エノケンの近藤勇』は、オリジナルシナリオを書いたとして「ピエル・ブリヤント、P.C.L.文芸部」とクレジットされており、演奏は「ピエル・ブリヤント管弦楽団」である。1937年(昭和12年)8月1日公開の『エノケンのちゃっきり金太 後篇』まで、10本のP.C.L.の映画に出演した〔日本映画データベースの「榎本健一 」の項の記述を参照。〕。
1938年(昭和13年)、榎本は松竹を退社して東宝と契約を結んだ〔。これまでは、松竹演劇部に籍を置きながら、P.C.L.や東宝映画の映画に出演していたことになる。「ピエル・ブリヤント」は「東宝榎本健一一座」と改名した〔。もはや二村は座長ではなかった。「ピエル・ブリヤント管弦楽団」は、「東宝管弦楽団」と合体した〔。東宝移籍後の第1作は映画『エノケンの法界坊』であった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエル・ブリヤント」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.