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ビューフォートの戦い : ミニ英和和英辞書
ビューフォートの戦い[びゅーふぉーとのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ビューフォートの戦い : ウィキペディア日本語版
ビューフォートの戦い[びゅーふぉーとのたたかい]

ビューフォートの戦い(ビューフォートのたたかい、、またはポートロイヤル島の戦い、)は、アメリカ独立戦争中の1779年2月3日に、サウスカロライナ植民地ビューフォート近くで行われた戦闘である。イギリス軍は前年1778年12月にジョージア植民地サバンナ占領し、その周辺の支配を固めてから間もない時に起こった。
1779年1月下旬、イギリス軍のオーガスティン・プレボスト准将は、サウスカロライナのブロード川河口にあるポートロイヤル島を占領するために正規兵200名を派遣した。アメリカ大陸軍南部の司令官ベンジャミン・リンカーン少将は、サウスカロライナのパーリーズバーグからウィリアム・ムールトリー准将に、主に民兵だが幾らかの大陸軍正規兵を混成した部隊を付けて派遣し、イギリス軍の侵攻に対応させた。戦闘そのものは引き分けに終わったが、イギリス軍が最初に退却し、大陸軍よりも多くの損失を出した。
== 背景 ==

1778年にフランスがアメリカ独立戦争に参戦した後、イギリス軍はその注視する所をアメリカ南部に向けた。イギリス軍は戦争初期に南部には注意を払っていなかった。イギリス軍はニューヨーク市と東フロリダセントオーガスティンから部隊を派遣することで南部戦略を開始し、1778年終盤にはジョージアのサバンナを占領することにした。ニューヨーク市のアーチボルド・キャンベル中佐の指揮する遠征隊が先ず到着し、1778年12月29日にうまくサバンナ市を占領することができた〔Russell, pp. 100-103〕。サバンナ守備隊の残りは、パーリーズバーグで宿営していたベンジャミン・リンカーン少将指揮下のサウスカロライナ民兵隊と合流し、イギリス軍と対抗することになった〔Wilson, p. 82〕。
イギリス軍のオーガスティン・プレボスト准将が1779年1月半ばにセントオーガスティンからサバンナに到着すると、そこの全軍の指揮を執り、22日にはキャンベルに部隊を付けて派遣し、オーガスタの占領とロイヤリスト民兵の徴募を目指させた〔Russell, p. 104〕。その後プレボストは海岸沿いをサウスカロライナに入った所にあるポートロイヤル島を占領するために部隊を派遣した。プレボストはそこのロイヤリストのイギリス寄りの感情が強いと信じ込まされていた。1月29日、耐航性のない戦列艦であり浮き砲台に転換されていたHMS''ビジラント''が、イギリス海軍の長艇に曳航され、ヒルトンヘッド島と本土を隔てる海峡を通っていった。これには小型艦船の船隊が従い、ウィリアム・ガードナー少佐が指揮する第16および第60歩兵連隊の歩兵200名を運んでいた〔。ガードナーはポートロイヤル島の主要な町であるビューフォートを占領せよと命令されていた〔Rowland et al, p. 216〕。
ポートロイヤル島で唯一防御が施された施設はリトルトン砦であり、大陸軍ジョン・デトレビル大佐が指揮する1個中隊が駐屯していた〔Rowland et al, p. 215〕。デトレビルは比較的大きなイギリス軍部隊が自分達の方向に向かっていることを知ると、砦の大砲を釘止めにし、主稜堡を爆破してイギリス軍が使えないようにした〔。大陸軍のリンカーン将軍は、イギリス軍の侵攻でポートロイヤル島との通信が切断されたことを知ると、サウスカロライナ民兵隊のウィリアム・ムールトリー准将に300名を付けて対応に向かわせた〔〔Wilson, pp. 52–53, 97〕。ムールトリーは1776年のサリバン島の戦いで頭角を現していた。ムールトリーの部隊は大半がビューフォート地域のサウスカロライナ民兵で構成されていたが、幾らかの大陸軍正規兵とチャールストンの砲兵2個中隊が同行した。砲兵中隊はアメリカ合衆国下院議員のエドワード・ラトリッジトマス・ヘイワード・ジュニアが指揮していた〔Russell, p. 104〕。この部隊はポートロイヤル島の主要渡し場に1月31日に到着した。それはデトレビル大尉が砦の破壊を完了してから間もない時だった〔Rowland et al, pp. 216–217〕。ムールトリー隊は2月1日に島を横切り、ビューフォートの町に入った〔Rowland et al, p. 217〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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