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ニコラ・レオナール・サディ・カルノー : ミニ英和和英辞書
ニコラ・レオナール・サディ・カルノー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ニコラ・レオナール・サディ・カルノー : ウィキペディア日本語版
ニコラ・レオナール・サディ・カルノー[ちょうおん]

ニコラ・レオナール・サディ・カルノー(、1796年6月1日 パリ - 1832年8月24日 パリ)はフランス軍人物理学者技術者で、仮想熱機関カルノーサイクル」の研究により熱力学第二法則の原型を導いたことで知られる。
==生涯==
ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(軍人、政治家、技術者、数学者)の長男として生まれた。少年時代から、水車のメカニズムなど、科学的な現象に興味を持っていたという。また控え目で非社交的であったが,正義感と感受性の強い性格であった。
1812年、エコール・ポリテクニークに入学。1814年に卒業後公務実施学校工兵科へと進み、技師として活動した。
1814年,15年のナポレオン失脚により、共和派の政治家であった父ラザールはマグデブルグでの亡命生活を余儀なくされたが,サディ・カルノーは王政復古下の軍隊に残った。
1819年参謀部の中尉に任命されたが、まもなく休職し、パリやその近郊で芸術鑑賞や楽器の演奏などのかたわら、熱機関と科学の研究を行った。当時パリ工芸院にいた応用化学者のニコラ・クレマンとも親交を持っていた。
1824年、『火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察』(以下、『火の動力』)を出版。
これは熱力学における画期的な論文であり、出版直後に技術者のジラールによりフランス学士院で紹介された。その場にはラプラスアンペールゲイ=リュサックポアソンなど、当時のフランスの科学者が多数出席していたとされる。しかしその場ではまったく反響を得ることがなかった。
1826年、工兵隊に戻り大尉となるが、軍隊の生活を嫌い、1828年に軍服を脱いぎ、熱機関と科学の研究を続けた。
1830年、フランス7月革命が起こるとカルノーはこれを歓迎、研究も一時中断した。しかし政治に直接的に関わろうとはしなかった。カルノーと弟のイッポリート・カルノーのどちらかを貴族院に迎え入れる提案があったときも、世襲を嫌う亡き父の立場を尊重し、弟と共にこの提案を断っている。
7月革命後は再び科学に没頭し、気体の性質などに関する研究を行った。しかしその研究途中の1832年6月、病に倒れ、同年8月24日、コレラにより36歳の生涯を終えた。死後、遺品はコレラの感染防止のためほとんどが焼却処分された。そのため、カルノーの経歴や人となりを伝えるものは、わずかに残された彼自身のノート(『数学、物理学その他についての覚書』、以下『覚書』)、そして弟のイッポリート・カルノーが著した伝記がほぼすべてである〔 なお同書には、カルノーの『火の動力』、および『覚書』、さらにイッポリートによる伝記が収められている。本節において特に脚注に記していない箇所の出典は、すべて同書による。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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