翻訳と辞書
Words near each other
・ ナゴヤユーランバス
・ ナゴヤ球場
・ ナゴヤ球場前駅
・ ナゴヤ球場正門前駅
・ ナゴヤ走り
・ ナゴル
・ ナゴルナヤ・ヤクーツカヤ
・ ナゴルニ
・ ナゴルノカラバフ
・ ナゴルノカラバフ州
ナゴルノ・カラバフ
・ ナゴルノ・カラバフの国旗
・ ナゴルノ・カラバフの国歌
・ ナゴルノ・カラバフの国章
・ ナゴルノ・カラバフの大統領
・ ナゴルノ・カラバフの旗
・ ナゴルノ・カラバフの行政区画
・ ナゴルノ・カラバフの通貨
・ ナゴルノ・カラバフ共和国
・ ナゴルノ・カラバフ共和国の国章


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ナゴルノ・カラバフ : ミニ英和和英辞書
ナゴルノ・カラバフ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ナゴルノ・カラバフ : ウィキペディア日本語版
ナゴルノ・カラバフ


ナゴルノ・カラバフ(, , )は、アゼルバイジャンの西部にある地域。「」と呼ばれる地域中部の山岳地帯に当たる。アルメニア人が多く居住しており、隣国アルメニアとアゼルバイジャンの対立の火種となっている。「ナゴルノ・カラバフ」という呼称は、カラバフ地方の東部山岳地方に対してロシア語で「ナゴールヌィ・カラバフ」(, 高地カラバフ)と名付けられたことが元になっており、現地のアルメニア語やアゼルバイジャン語には基づかない。また「アルツァフ」と呼ばれることがあるが、これはかつてナゴルノ・カラバフを治めていたアルメニア人王国に由来する。
== 歴史 ==
ナゴルノ・カラバフを含むカラバフは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となっており、ロシア帝国崩壊後に両民族がアルメニア第一共和国アゼルバイジャン民主共和国を建国すると遂には軍事衝突()にまで発展した。その後両者は赤軍の圧力によって1920年末までに共産化し、ソビエト連邦の構成体であるアルメニア社会主義ソビエト共和国アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国になった。だが、アルメニアがソ連構成体となる時にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がナゴルノ・カラバフとシュニク地方をアゼルバイジャンに割譲することを提案すると、追放されたアルメニア革命連盟が反ボリシェヴィキ運動を激化させ、1921年4月26日にはナゴルノ・カラバフを含むアルメニア南部において山岳アルメニア共和国の独立を宣言したが、赤軍との熾烈な戦闘の末に1921年7月13日に消滅した。
帰属が確定したのは共産化の翌年である1921年7月4日のことで、現地のボリシェヴィキによる国境画定交渉によってナゴルノ・カラバフはアルメニア領とされた。しかしアゼルバイジャン側は猛反発し、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまった。
こうしてアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月7日にアゼルバイジャン内の自治州としてナゴルノ・カラバフ自治州が設置された。
自治州成立後もアルメニア人はソビエト連邦の政局が変わるたびにアルメニアへの編入を求めた。やがて1985年にミハイル・ゴルバチョフソ連邦共産党書記長に就任、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されるとアルメニアへの編入運動はいっそう大きくなり、やがてアルメニアとアゼルバイジャンは衝突し始め、ナゴルノ・カラバフ戦争にまで発展。ソ連崩壊後はアルメニアへの合流を求めてナゴルノ・カラバフ自治州はナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)として1991年9月2日に独立宣言を発し、現在も独立状態を保っている。
しかしアブハジア南オセチア沿ドニエストル以外に独立を承認している国はなく、しかも全て一部・未承認国家であるため、あくまで事実上独立した地域である。承認を受けた3か国とは民主主義と民族の権利のための共同体を結成している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナゴルノ・カラバフ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.