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ドナー隊 : ミニ英和和英辞書
ドナー隊[-たい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [たい]
 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps

ドナー隊 : ウィキペディア日本語版
ドナー隊[-たい]

ドナー隊(ドナーたい、Donner Party)、あるいはドナー=リード隊 (Donner-Reed Party) とは、1846年の春、アメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。彼らは旅程の遅れのために、1846年晩秋から47年早春までシエラネバダ山脈山中での越冬を余儀なくされ、過酷な環境の中で多数の餓死者や凍死者を出した。生存者たちは、必然的にカニバリズム(人肉食)に走らざるを得なかった。
アメリカ西部への幌馬車による旅は、大抵の場合は6ヶ月を必要とする。しかしドナー隊はヘイスティングズ・カットオフと呼ばれる近道を選択したところ悪路に阻まれ、さらにワサッチ山脈グレートソルト湖周辺の砂漠地帯を越え、ハンボルト川の谷に従って進みネバダ州に至る間に多くの幌馬車と家畜を失い、グループ内にも分裂が生じた。
1846年11月、一行はカリフォルニアに至る最後の障壁・シエラネバダ山脈に差し掛かる。しかし早い冬の訪れに伴う大雪に阻まれ、海抜2,000mに位置するトラッキー湖(現在では、ドナー湖と呼ばれている)湖畔での越冬を余儀なくされる。食料は早い段階で尽き、幾人かは雪の山脈を越えてカリフォルニアに助けを求めた。しかし救援隊は1847年2月になるまで到着せず、結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアの地を踏んだのは48人だった。歴史家は、この事件を西部開拓史における壮大な悲劇と位置付けている〔McGlashan, p. 16; Stewart, p. 271.〕。
== 背景 ==

1840年代、アメリカ合衆国では東部の故郷を捨て、西部のオレゴンやカリフォルニアへの定住を目指す者が劇的に増加した。1830年代には年間に数十人だったものが、数千人単位にまで膨れ上がった。
移民たちの中には、パトリック・ブリーンのように、カトリックとしての信仰生活を体現するべく新天地を目指す者もいたが〔Enright, John Shea (December 1954). "The Breens of San Juan Bautista: With a Calendar of Family Papers", ''California Historical Society Quarterly'' 33 (4) pp. 349-359.〕、大抵の者は、アメリカによる北米全域の領有を正当化する思想「マニフェスト・デスティニー」に触発されて西部を目指した〔Rarick, p. 11.〕。
列成す移民の馬車の大部分は、ミズーリ州の町・インディペンデンスを起点として大陸分水嶺に向かう街道オレゴン・トレイルを、1日平均15マイル(24km)〔Rarick, pp. 18, 24, 45.〕のスピードで進み、4ヶ月から6ヶ月で踏破した。街道は、全般的に川に沿って続いており、やがてサウス・パスという比較的に馬車行に無理の少ないワイオミングの山道を抜ける〔Rarick, p. 48.〕。人々は、ここからめいめいの目的地に至るルートを選択した〔Rarick, p. 45.〕。
ランスフォード・ヘイスティングズという初期の移民は、1842年にカリフォルニアに入り、その未開発の土地に将来性を見いだした。さらなる定住者の増加を促すため、『オレゴン・カリフォルニア移民への手引書』(''The Emigrants' Guide to Oregon and California'')を出版〔。この著書においてヘイスティングズは、カリフォルニアまでのルートとしてワサッチ山脈グレートソルトレイク砂漠を通過するグレートベースン横断の旅程を解説している〔。しかしながらヘイスティングズ自身がこのルートを初めて使ったのは1846年初頭にカリフォルニアからブリッジャー砦までの移動した際のことで、それ以前はまったく足を踏み入れたことがなかった。なお、ブリッジャー砦とは、探検家のジム・ブリッジャーが相棒のピエール・ルイ・バスケスと共にワイオミング州のブラックスフォークに設立した交易所である。ヘイスティングズは自身が提案した近道を旅行者たちに伝授すべく、この砦に滞在していた〔Rarick, p. 47.〕。1846年当時、グレートソルトレイク砂漠南部の横断に成功したのは、文書として残る限りヘイスティングズで2人めだったが、ヘイスティングズもその先達者も馬車で達成したわけではなかった〔〔この砂漠を横断したという現地部族が文字で残した記録はなく、また移民たちの書簡などの中にもこの道に関する言及はない(Rarick, p. 69)。〕。
カリフォルニア行きの旅における最大の難所は、最後の100マイル(160km)、シエラネバダ山脈横断である。この山脈には、海抜12,000フィート(3,700m)を越す峰が500以上も聳え〔Rarick, p. 105.〕、東側は非常に急な斜面になっている。さらに山脈自体の高度と太平洋に近い立地条件ゆえ、北米大陸では有数の豪雪地帯である〔Rarick, p. 106.〕。ミズーリ以降カリフォルニアやオレゴンに至るまで続く広大な荒野を突破するのに重要なポイントは、旅行のタイミングを計ることだった。さもなくば春の雨によって泥濘化した道が幌馬車を立ち往生させたり、あるいは9月以降の山で積雪に行く手を阻まれたりすることになる。また、牛馬を伴う以上、周囲に若草が生い茂る季節のうちに旅を終えなくてはならない〔Rarick, p. 17.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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