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ドゥプチェク : ミニ英和和英辞書
ドゥプチェク[ぷち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

プチ : [ぷち]
 【形容詞】 1. small 《フランス語》 petit

ドゥプチェク ( リダイレクト:アレクサンデル・ドゥプチェク ) : ウィキペディア日本語版
アレクサンデル・ドゥプチェク[ぷち]

アレクサンデル・ドゥプチェクAlexander Dubček, 1921年11月27日-1992年11月7日)は、チェコスロバキア政治家チェコスロバキア共産党第一書記(第2代)を歴任し、改革運動プラハの春を率いた。またビロード革命時の民主化の象徴の一人となった。
== 来歴・人物 ==
西部スロバキアのトレンチーン県バーノウツェ・ナト・ベブラヴォウ郡ウフロヴェツ村生まれ。生後まもなく、父親で大工のシュテファンは出稼ぎのため家族を連れて米国にわたり、共産主義を知った。共産主義者となったシュテファンは、ドゥプチェクら家族を米国に残して1925年に単身ソ連に渡り、ピシュペク(現・キルギス共和国ビシュケク市)に設けられたチェコ人およびスロバキア人労働者による社会主義体制構築支援チーム「インテルヘルポ」(Interhelpo)に加わった。のち家族もシュテファンに合流してゴーリキー市(現在のニジニ・ノヴゴロド市)に移り住み、1938年に帰国した。
ドゥプチェクは翌1939年、非合法化されたスロバキア共産党に入党した。トレンチーン県プーホウ郡ドゥブニツァ・ナト・ヴァーホム市で機械組立工として勤め、1944年スロバキア国民蜂起に加わった。戦後、トレンチーン市バンスカー・ビストリツァ市の共産党機関に勤務した。のち1955年から1958年までモスクワに留学して政治学を学び、ニキータ・フルシチョフによるソ連共産党の政策転換を目の当たりとした。
帰国後、1962年にブラチスラヴァ市のスロバキア共産党西部スロバキア県委員会第一書記、1963年にスロバキア共産党中央委員会第一書記に就任してスロバキアの政治体制自由化を推し進めた。スロバキア語を創始した19世紀の言語学者、リュドヴィート・シュトゥールの生誕150年記念式典やスロバキア国民蜂起20周年記念式典など、スターリン主義政策を取っていたプラハのチェコスロバキア共産党指導部が「ブルジョア民族主義」だとして厳しく抑圧していたスロバキア人の民族文化に関わる事業に積極的に取り組んだほか、スロバキア域内における出版の規制緩和も進め、チェコ人が情報を得るためにスロバキア語の出版物を手に入れようとするまでになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレクサンデル・ドゥプチェク」の詳細全文を読む




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