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ドイツ民主共和国のスポーツ : ミニ英和和英辞書
ドイツ民主共和国のスポーツ[どいつみんしゅきょうわこくのすぽーつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ドイツ民主共和国 : [どいつみんしゅきょうわこく]
 (n) German Democratic Republic (i.e. former East Germany)
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
民主 : [みんしゅ]
 【名詞】 1. democratic 2. the head of the nation 
: [ぬし, おも]
 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god 
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共和 : [きょうわ]
 【名詞】 1. republicanism 2. cooperation 
共和国 : [きょうわこく]
 【名詞】 1. republic 2. commonwealth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ドイツ民主共和国のスポーツ : ウィキペディア日本語版
ドイツ民主共和国のスポーツ[どいつみんしゅきょうわこくのすぽーつ]

ドイツ民主共和国のスポーツでは、1949年から1990年まで現在のドイツ連邦共和国(ドイツ、BRD)の北東部地域に存在したドイツ民主共和国(東ドイツ、DDR)におけるスポーツ活動について述べる。
なお、本文中では、特に必要な場合を除いて、ドイツ民主共和国を「東ドイツ」、統一前のドイツ連邦共和国を「西ドイツ」と称する。また、必要に応じて、1990年のドイツ再統一後の旧東ドイツ地域におけるスポーツ状況についても述べる。
==競技スポーツ==

===オリンピック===

''オリンピックの成績についてはオリンピック東ドイツ選手団の項目も参照の事。''
東ドイツにおいては、国際大会への参加を含む競技スポーツは、ソビエト連邦など他の社会主義国同様に国家の威信をかけた強化策が取られ、水泳競技などはオリンピックなどでも輝かしい成績を残した。
東ドイツは、第二次世界大戦の開戦責任を問われたオリンピック参加除外処分が解除されると、1956年冬季のコルティナダンペッツォオリンピックから1964年夏季の東京オリンピックまでは西ドイツとの統一ドイツチームとして参加し、三色旗の中央(赤字の部分)に白く五輪マークを抜き出した五輪旗を利用した。東京では金メダル10個を獲得し、国別獲得数では日本に次ぐ4番目になった。
1968年グルノーブルオリンピック(冬季)・メキシコシティオリンピック(夏季)からは東ドイツ単独で選手団を編成して五輪に参加し、引き続き好成績を残した。特に1976年から最後の参加になった1988年夏季のソウルオリンピックまでの夏冬合計8回の各大会では、不参加だった1984年夏季のロサンゼルスオリンピックを除く各大会において、金メダル獲得数でソ連に次ぐ2位を占めた。東ドイツの金メダル最多獲得大会はアメリカ合衆国日本がボイコットした1980年夏季のモスクワオリンピックで、マラソン男子で前回1976年モントリオールオリンピックに続いて連覇したワルデマール・チェルピンスキーなど計47個を獲得した。この大会ではソ連が80個を獲得したので、金メダル総数204個の6割以上が両国で占められた。
また、1984年冬季のサラエボオリンピックでは、スピードスケートで女子が全種目制覇を達成し、ソ連を抜いて最多の11個の金メダルを獲得した。この時にフィギュアスケート女子シングルで優勝したカタリナ・ヴィットは続く1988年のカルガリーオリンピックでも優勝した。
ただし、東ドイツのスポーツは国威発揚の手段で、政治に従属する存在だったため、1984年のロサンゼルスオリンピックもソ連に従ったボイコット決定を強いられた。また、ドーピング違反者も登場し、記録の公正性への疑問が続出した。国家ぐるみではないかという西側諸国からの批判は正しかった事が、ドイツ統一後に明かされた(下記参照)。
東ドイツが崩壊してドイツ統一が実現すると、トップ選手達は国家の庇護を外され、一転して劣悪な競技環境に置かれた。また、東ドイツの国家秘密警察であるシュタージは国外に出る事が多いスポーツ関係者に注目し、多くの情報提供を強要した。ヴィットは統一後に出版した自伝の中で、自らもシュタージの協力者にさせられ、同時に私生活が厳しく監視されていた事を告白した。〔メダルと恋と秘密警察―ビットが明かす銀盤人生 カタリナ・ヴィット著〕
これらの事情が災いし、旧東ドイツ地域でのスポーツ水準は大きく低下し、旧西ドイツが期待したような統一ドイツの金メダルラッシュは起こらなかった。オリンピックドイツ選手団として臨んだ1992年のオリンピックでは、冬季のアルベールビルオリンピックでほぼ前回カルガリー大会の東ドイツ並み〔カルガリーでは東ドイツが金9、銀10、銅6の計25個、 西ドイツが金2、銀4、銅2の計8個、合計で金11、銀14、銅8、33個のメダル数だったが、アルベールビルでのドイツは金10、銀10、銅6の計26個。〕、夏季のバルセロナオリンピックでは前回ソウル大会での東ドイツすら下回るメダル獲得数に終わった〔ソウルでは東ドイツは金37、銀35、銅30の計102個、西ドイツは金11、銀14、銅15の計40個、合計で金48、銀49、銅45の計142個だったが、バルセロナでのドイツは金33、銀21、銅28の計82個。〕。
その後も、特に夏季大会でドイツのメダル数は減少を続けている。
ただし、その苦境の中でもオリンピックで金メダルを獲得する旧東ドイツ出身の選手がいる。1979年、17歳の時に世界選手権で初優勝したビルギット・フィッシャーは、女子のカヌーカヤック競技で1980年のモスクワ大会から2004年のアテネ大会まで6大会連続、合計8個の金メダルを獲得し〔モスクワの18歳とアテネの42歳は、いずれも金メダル獲得時の最年少・最高齢記録。他に銀メダル4個。東ドイツ時代の獲得は金3個、銀1個。〕、ハイケ・ドレクスラーは東ドイツ時代の1988年ソウル大会で銀メダルを得た女子走幅跳で1992年のバルセロナ大会と2000年のシドニー大会で金メダルを獲得している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドイツ民主共和国のスポーツ」の詳細全文を読む




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