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トルコ航空DC-10パリ墜落事故 : ミニ英和和英辞書
トルコ航空DC-10パリ墜落事故[とるここうくう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

航空 : [こうくう]
 【名詞】 1. aviation 2. flying 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
墜落 : [ついらく]
  1. (n,vs) falling 2. crashing 
墜落事故 : [ついらくじこ]
 (n) a plane crash
: [おち]
 【名詞】 1. joke punch line 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事故 : [じこ]
 【名詞】 1. accident 2. incident 3. trouble 4. circumstances 5. reasons 
: [ゆえ]
  1. (n-adv,n) reason 2. cause 3. circumstances

トルコ航空DC-10パリ墜落事故 : ウィキペディア日本語版
トルコ航空DC-10パリ墜落事故[とるここうくう]

トルコ航空DC-10パリ墜落事故 (トルコこうくうDC-10パリついらくじこ、Turkish Airlines Flight 981) は、1974年フランスで発生したトルコ航空981便のマクドネル・ダグラス DC-10-10(マクドネル・ダグラス社製、機体記号TC-JAV)が墜落した航空事故である(別名:トルコ航空981便墜落事故)。事故の発端は閉鎖が不完全だった貨物室のドアが、機体の上昇に伴う機内与圧と機外の気圧の圧力差の拡大に耐え切れずに脱落したことである。これに伴い貨物室内で急減圧が発生し、客室との気圧差で後部客席の床が破壊され、床下を通るコントロールライン(油圧パイプ/ケーブル)が切断され、その結果機体の方向舵、昇降舵、尾部エンジンの制御ができなくなり、操縦不能に陥り墜落したものであった。
なお事故機のTC-JAV号機は1972年ダグラス社が日本全日空向けに製造したものの、政治工作によりキャンセルされた機体であり、在庫となった機体の処置に困ったダグラス社がトルコ航空に破格の条件で販売したものであった。
== 事故の概略 ==
1974年3月3日、当日はブリティッシュ・エアウェイズストライキがあり、数少ない運航便は混雑していた。トルコ航空981便も、航空会社職員のミスで一部乗客の案内が行われずに若干の空席があったものの、ほぼ満席となっていた。トルコイスタンブルを出発し、パリを経由して最終目的地であるイギリス・ロンドンに向かうためオルリー空港を離陸した。
異常事態の発生は離陸から10分後、高度12000ft(3600m)に達した時だった。突然貨物室ドアが吹き飛んで、乗客6人が座席ごと吸い出された。また、貨物室の減圧で客室床が陥没し、床下を通っていたコントロールライン(操縦系統)が破損したため完全に操縦不能に陥った。吹き飛んだドアが水平尾翼に接触、機首が下がってエンジン推力も低下し、左に大きく傾きながら急降下し始めた。
このとき、出発地のオルリー国際空港のレーダーで捉えた981便の機影が分裂したのが観察された。一つ(貨物室ドア)はその場にとどまったまま消滅し、もう一つ(機体)は左方向へ旋回し始めた。管制官は981便に呼びかけたが、981便からは混乱したトルコ語の会話および速度逸脱警報音と航路逸脱警報音が聞こえるだけであった。混乱した会話の内容は後に副操縦士の発した『機体が爆発した』と判明した。
そして異常発生から約1分後の午後12時40分、981便は時速430ノット(796km/h)の高速で、パリの北東約37kmのオワーズ県サンリス近郊のエルムノンヴィルの森に機首をわずかに下に向けた状態で墜落し、100m×700mに渡って木々をなぎ倒した。機体は一部の破片を除いて微塵に砕け散り、事故現場は犠牲者のちぎれた体や内臓が散乱する凄惨な様相を呈した。
この事故で乗員12名、乗客334名の合わせて346名全員が犠牲になった。犠牲者のなかには48名の日本人が含まれており、その多くがこの春から就職する内定者(東海銀行16人、トーメン15人、中央信託銀行6人、千代田生命1人)の団体ツアーで、欧州への研修旅行の途中で悲劇に見舞われたものであった。また、1964年東京オリンピックの400メートルハードル及び400メートルリレーで銀メダルを取ったイギリスの陸上選手ジョン・クーパーも犠牲となった。これらの犠牲者の遺体は、高速で森に激突したために損傷がひどく、遺族には遺品のみが手渡され、遺体を集めて荼毘(だび)に付した後に遺骨および消毒した現場の土を各遺族へ分けるという方法が採用された〔飛行機事故2 〕。
この事故は、300人以上が搭乗した大型旅客機としては初の大事故となった〔それ以前にも1972年イースタン航空のロッキード・トライスターが墜落事故(イースタン航空401便墜落事故)を起しており、これがワイドボディ機初の全損事故である。しかし、この時の乗客は200人以下で、死者は乗員乗客合わせて103名だった。〕。また、1977年3月27日テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が起こるまでは世界最大の航空事故であり、1985年8月12日JAL123便事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった。
事故現場には現在慰霊碑が建てられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トルコ航空DC-10パリ墜落事故」の詳細全文を読む




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