翻訳と辞書
Words near each other
・ ディリ虐殺
・ ディル
・ ディル=リフィーナ
・ ディルアングレイ
・ ディルイーヤ
・ ディルク
・ ディルク・オブライエン・ベイカー
・ ディルク・カイト
・ ディルク・スヌーク
・ ディルク・スノーク
ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック
・ ディルク・ニーベル
・ ディルク・ノヴィツキー
・ ディルク・バウツ
・ ディルク・ファンティシェル
・ ディルク・ファン・バビューレン
・ ディルク・フリムー
・ ディルク・ブラウワー
・ ディルク・ブロッセ
・ ディルク・ボウツ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック : ミニ英和和英辞書
ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック[ぶる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull

ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック : ウィキペディア日本語版
ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック[ぶる]
ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek、1833年8月29日アムステルダム生まれ - 1916年6月27日ハーグにて没)は日本で成功を収めたオランダ外交官。1863年7月、駐日総領事兼外交事務官に就任した。また、欧米諸国と日本との多くの外交交渉において主要な役割を果たした。また、デンマークスウェーデンノルウェーの代表も務め、一時的にではあるがプロイセンスイスの代表も兼ねた。
== 経歴 ==

ポルスブルックは、1833年8月28日に、オランダの貴族であるデ・グラーフ家の一員として生まれた。父はツイト=ポルスブルック、プーマランドおよびイルペンダム伯ゲリット・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック4世(Gerrit de Graeff (IV) van Zuid-Polsbroek, heer van Zuid-Polsbroek, en Purmerland en Ilpendam)、母はカロリーナ・ウルスリナ・ステファニア・エンゲルス(Carolina Ursulina Stephania Engels)である。日本滞在中に、女中として同居していた小山おちょうとの間に長男ピーテル(1861年6月8日-1914年8月7日)をもうけている。1872年にボンネ・エリザベート・ロイエル(Bonne Elisabeth Royer)と結婚。5人の子供をもうけるが、そのうちの一人は後に駐日オランダ大使、オランダ領東インド総督、オランダ外務大臣を歴任したアンドリース・コルネリス・ディルク・デ・グラーフ(Andries Cornelis Dirk de Graeff1872年8月7日1957年4月24日)である。
本名ははディルク・デ・グラーフあるが、1853年に東インドに赴任した際に「ファン・ポルスブルック」の自称を加えた。おそらく植民地陸軍に勤務していた兄弟と区別するためと思われる。バタヴィアの植民地政府で勤務した後、1857年6月に出島に2等補佐官として赴任した。1859年7月、横浜の開港に伴い、同地の副領事となった(当初領事館は神奈川にあったため、肩書きは神奈川副領事である)。1863年7月、日本との外交担当政庁が植民地省から外務省に変わると、ポルスブルックの肩書きは駐日総領事兼外交事務官に変わった。1868年、駐日オランダ大臣との肩書きを得た。1869年2月、ポルスブルックは新しい首都となった東京において明治天皇に信任状を提出した〔明治神宮にその絵画がある〕。外交官としての経歴は、1870年に北京への赴任を拒否したことで終わる。在日中、1858年に彼の同僚であるカール・ジュリアス・テクスター(Carl Julius Textor)が設立した Textor & Co.の共同経営者でもあった。また、日本最初の競馬である横浜レーシング倶楽部の設立者の一人でもある〔馬の博物館〕。
ポルスブルックは、日本とベルギーデンマークハンザ同盟スイススウェーデン/ノルウェーといった欧州の小国との交渉も支援した〔Documents and letters in the National Archives at The Hague, Foreign Affairs No. 3141-3147; Consular Archives of Nagasaki and Yokohama 1860-1869)〕。1870年、オランダへの帰国の際に北京への赴任を命じられたがこれを受けず、オランダ通商協会(Nederlandsche Handel-maatschappij)の理事に就任し〔National Archive The Hague, Archive of the Netherlands Trading Society〕、ハーグに住んだ。1873年に岩倉使節団がオランダを訪問した際には、政府側の担当を務めた。1870年代にヨンケール・デ・グラーフ(Jonkheer De Graeff)、それ以降は自称していたファン・ポルスブルックの名前は使っていない。
1916年6月27日、ポルスブルックはハーグにて没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.