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ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス : ミニ英和和英辞書
ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス ( リダイレクト:テイチク・ジャズ・オーケストラ ) : ウィキペディア日本語版
テイチク・ジャズ・オーケストラ[ちょうおん]

テイチク・ジャズ・オーケストラ(Teichiku Jazz Orchestra)は、日本のレコード会社テイチクエンタテインメント社内に、かつて存在した録音用専属オーケストラである。
== 略歴・概要 ==
1930年代初頭、テイチクは浪曲、落語を得意分野としていたが、ジャズなど洋楽に関してのレコードは少数であり、あまり力を入れていなかった。だが、1934年、テイチクが東京進出したことで、今までのイメージの払拭を図り、当時関西で人気を博していた日本人と外国人の混合バンド「四ホール連盟ダンス・オーケストラ」や白人バンド「ジェリー・ウッド・エンド・ヒズ・アンバサダーズ」等の録音を行い、多くのレコードを発売する。
同時にテイチク専属のジャズバンドの計画が持ち上がり、ディック・ミネがプレイヤーの人選を行った結果、白人3人、日本人6人となるディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスが東京で結成された〔毛利, p..〕。このバンドの初吹き込みは1934年8月7日に行われ、『ハレムから来た男(原題:The Man from Harlem)』、『ホワイト・ヒート(原題:White heat)』、『ロマンチック(原題:Romantic)』が録音された。なお、このセッションにおいてディック・ミネが参加したのは『ロマンチック』のみであり〔毛利, p..〕〔毛利, p..〕、『ロマンチック』は彼のデビュー盤となった〔中村, p..〕〔瀬川, p..〕。
その後は、ディック・ミネがレコードを吹き込む時に限り、「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」の名称が使用されるようになり、インストの録音〔瀬川, p..〕〔保利, p..〕や川畑文子、チェリー・ミヤノ、ベティ稲田など日系二世、三世歌手の伴奏等を務める際はテイチク・ジャズ・オーケストラとしての名称が主に使われるようになった〔毛利, p..〕。
テイチク・ジャズ・オーケストラ(ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス)による録音は人気を博し、テイチクは「ジャズ王国」と評されるに至る〔毛利, p..〕。
それから何度かマイナーチェンジでメンバーの入れ替えを行っていたが、1940年、テイチク管弦楽団と名称変更がなされ、規模縮小される。流行歌や邦曲中心のレパートリーとなりジャズバンドとしての用途は外れていった〔毛利, p..〕。
そして、その後のテイチクは「タイゾウ・スヰング・オーケストラ」が主たるジャズバンドとして活躍していくことになる〔毛利, p..〕。
テイチク・ジャズ・オーケストラの名称に関しては、テイチク・ジャズバンド、テイチク・オーケストラといった表記のレコードも存在する〔毛利, p..〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テイチク・ジャズ・オーケストラ」の詳細全文を読む




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