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チャールズ・イングリス : ミニ英和和英辞書
チャールズ・イングリス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チャールズ・イングリス : ウィキペディア日本語版
チャールズ・イングリス[ちょうおん]

チャールズ・イングリス1731年ごろ-1791年10月10日)はイギリス海軍士官である。オーストリア継承戦争七年戦争、そしてアメリカ独立戦争に従軍し、後に青色少将に昇進した。
ジェントリの家に生まれ、海軍では順調な出だしを切った。最初はジョージ・ブリッジズ・ロドニー艦長の指揮のもと、第二次フィニステレ岬の海戦に共に参戦したが、オーストリア継承戦争の末期からしばらく、乗艦できない時があった。その後、おそらくは家族の友人や縁故により新しい役職を得て、七年戦争中に海尉に昇進した。何隻かの軍艦で任務に就いた後、フランス沖の艦隊で初めて指揮を執った。その艦隊のうち1隻の艦長は、かつての上司であるロドニーだった。戦争が終わり、イングリスにとって一時的な活動休止期間が訪れたが、1770年のフォークランド危機で、短期間ではあったが軍艦を就役させた。
アメリカ独立戦争の勃発と共に、海軍に戻り、カリブ海で巨大なスペイン私掠船拿捕した。1781年にはサミュエル・フッドの艦隊の一員としてセント・キッツの戦いに参戦し、翌1782年には、セインツの海戦に赴いた。この時も、提督となったロドニーと共にフランス艦隊を破った。独立戦争末期には小艦隊の指揮官に任命され、航海中にフランスのフリゲート艦を拿捕するなど、いくつかの成功を収めた。独立戦争が終わるころに退役し、1790年に海軍少将に昇進して、その翌年に没した。
==海軍入隊と二つの戦争==
イングリスは1731年ごろ、2代準男爵サー・ジョン・イングリスと妻アンの四男として生まれた。母のアンは、オーミストン卿アダム・コックバーンの娘だった。1745年、イングリスは海軍に入隊した。最初は40門艦で、ジョージ・ブリッジズ・ロドニー艦長のもと任務に就いた。翌年、ロドニーと共に60門艦に移った。ロドニーはこの艦で数度の有益な航海を行った。その航海で、1747年6月にはフランスの護送船団から4隻を拿捕し、1747年10月25日、第二次フィニステレ岬の海戦で、少将エドワード・ホークデシェルビエ・ド・レタンデュエルの交戦の際に、ホークの指揮のもと戦った。このフランス船拿捕や、第二次フィニステレ岬の海戦で、イングリスは実戦を目の当たりにした。イーグルはフランスの70門艦ネプチューンとの激戦でかなりの損失を被った。1748年8月アーヘンの和約の締結と共に退役となり、乗るべき艦を失ったイングリスは、1750年まで無役だった。その後50門砲のに乗り、艦長フランシス・ホルボーンのもとで任務に就いた〔。イングリスの伝記作者P. K. クリミンは、ホルボーンもイングリス同様にスコットランドのローランド地方の出身であり、この時は、イングリスのおじで、海軍卿ジョン・コクバーンをはじめとする支援者のつながりによって職を紹介されたのだろうとしている。コクバーンは1727年から1732年までと、1742年から1744年と2度海軍卿を務め、イングリス一家の友人である2代男爵ジョン・クラークも大きな政治的影響力を持っていた。
1755年2月6日、イングリスは海尉の試験に合格した。海軍に入隊して10年が過ぎていた。エイブラハム・ノース艦長のもとで74門艦のに乗り、1756年4月までには74門艦のに異動して、ウィテューロング・テイラー艦長のもとで任務に就いた。次にイングリスはテイラーと共にマルバラ、そして1757年6月3日には84門艦ロイヤル・ウィリアムに乗艦した〔 。その後指揮官となって、1757年6月17日、14門艦のスループである(エスコルト)で、初めて単独で指揮を執った〔〔Winfield 2007, p.270〕。当初イングリスは、1757年9月の、ホークのロシュフォール遠征の支援をしていたが、結局この遠征は失敗に終わった。次に1759年6月、新しい臼砲艦に乗り、翌月のル・アーヴル攻撃を支援した。この時の最高指揮官は、イングリスのかつての上司であるロドニーだった〔〔Winfield 2007, p.350〕 。この遠征は成功して、港に集結していた多くの平底船を破壊し、このため、フランスのイギリス本土侵攻計画は挫折した〔 。カルカスは1759年5月に、地中海へ航行した2隻目の艦として記録されたが、翌年にはイギリスに戻り、シアネスで1760年に退役した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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