翻訳と辞書
Words near each other
・ チャンティコ
・ チャンティックス
・ チャンディガル連邦直轄地
・ チャンディガル連邦直轄地域
・ チャンディダサ
・ チャンディーガル
・ チャンディーガル連邦直轄地
・ チャンディーガル連邦直轄地域
・ チャンディーガル連邦直轄領
・ チャンデーラ
チャンデーラ朝
・ チャンデーリー
・ チャント
・ チャント (小惑星)
・ チャントラカティ
・ チャント星人
・ チャンド
・ チャンドス卿の手紙
・ チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ
・ チャンドニー・チョーク駅


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

チャンデーラ朝 : ミニ英和和英辞書
チャンデーラ朝[ちゃんでーらちょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

チャンデーラ朝 : ウィキペディア日本語版
チャンデーラ朝[ちゃんでーらちょう]
チャンデーラ朝(チャンデーラちょう、英語:Chandela dynasty)は、9世紀初頭から14世紀初頭にかけて、インド中部のブンデールカンド地方 (現マディヤ・プラデーシュ州)に存在したヒンドゥー王朝ラージプートの王朝でもある。チャンデッラ朝とも呼ばれる。首都はカーリンジャルカジュラーホーマホーバー
==歴史==

===成立と独立===

9世紀初頭、チャンデーラ朝の祖であるナンヌカという人物がブンデールカンドを支配し、当初はプラティーハーラ朝の封臣(サーマンタ)であった。チャンデーラ朝は「月」から生まれたクシャトリヤの家系とする伝承をもつ、ラージプートの王朝と自称していた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。
しばらくプラティーハーラ朝の封臣として、 デカン地方ラーシュトラクータ朝と戦い続けてきたが、チャンデーラ朝台頭の契機となったのは、まさしく916年から917年に行われたラーシュトラクータ王インドラ3世の北伐であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。
この「北伐」によって、プラティーハーラ朝の首都カナウジは陥落し、プラティーハーラ王マヒーパーラ1世はナンヌカの玄孫にあたるハルシャ(在位:900年 - 925年)の助けを得て、ようやく王位を回復するといった状態であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。
940年頃、ヤショーヴァルマン (在位:925年 - 950年)の治世、ラーシュトラクータ朝のクリシュナ3世カラチュリ朝と同盟して侵攻し、プラティーハーラ朝はこのときカーリンジャルを失った。だが、ヤショーヴァルマンがラーシュトラクータ朝とカラチュリ朝を破り、カーリンジャルを奪還したことによってこの地を獲得し、自立する契機となった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。
また、ヤショーヴァルマンのときに首都カジュラーホーヴィシュヌ神にささげる宮殿として、ラクシュマナ寺院を建設したことが知られている〔この寺院の建設年代は、945年頃と考えられている。〕。
一方、主家であるプラティーハーラ朝が衰退すると、ブンデールカンドでの独立性を確保し、10世紀後半のダンガ (在位:950頃~1008頃)の治世には事実上独立し、周辺諸国と争いつつ領土の拡張を押し進めた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。10世紀後半のダンガ碑文にプラティーハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。
1002年にダンガ王はヴィシュワナータ寺院を建設し、後にパールシュワナータ寺院を建設している。また、カジュラーホーの西グループにチトラグプタ寺院デーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャンデーラ朝」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.