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ダイアナ妃 : ミニ英和和英辞書
ダイアナ妃[だいあ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ダイア : [だいあ]
 【名詞】 1. (1) dyer 2. (2) diagram (abbr) 3. (3) (railway) schedule 4. (4) diamond (abbr), (n) (1) dyer/(2) diagram (abbr)/(3) (railway) schedule/(4) diamond (abbr)
: [ひ]
 【名詞】 1. princess 2. consort 

ダイアナ妃 ( リダイレクト:ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ) ) : ウィキペディア日本語版
ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)[ひ]

ウェールズ公妃ダイアナ(、全名: ダイアナ・フランセス()、旧姓: スペンサー()、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。
イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年にチャールズ皇太子と結婚し、彼との間にケンブリッジ公ウィリアム王子(第2位王位継承権者)およびヘンリー王子(第5位王位継承権者)の2子をもうけた。しかし後にチャールズ皇太子と別居状態になり、1996年に離婚した。1997年パリ交通事故による不慮の死を遂げた。
== 概要 ==

1961年スペンサー伯爵家の嫡男であるオールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサーとその夫人フランセスの間の三女としての屋敷パークハウスで生まれる。スペンサー家17世紀以来続く貴族の家系である(''→生誕と出自'')。
両親は1967年から別居し、1969年に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校に入学、ついで1973年ケント州にある寄宿学校に入学した。1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLady(
姫、令嬢)の儀礼称号を得た(''→少女時代'')。
1977年に姉セーラと交際していたウェールズ公(皇太子)チャールズと初めて出会った(''→チャールズ皇太子との出会い'')。同年末にスイスにある花嫁学校に入学するも、すぐに帰国し、ロンドンで一人暮らしを始める(''→ロンドンで独り暮らし'')。1979年に王室ののパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった(''→皇太子との交際'')。
1981年2月に皇太子と婚約し、7月29日セント・ポール大聖堂で結婚式を取り行った(''→皇太子との婚約結婚式'')。1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム王子とヘンリー王子の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。ダイアナは過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる(''→ケンジントン宮殿での生活ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生皇太子との関係の冷却化皇太子との不協和音'')。
1992年12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。1993年に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、1994年には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。ダイアナは1995年11月にBBCのインタビューに答えて皇太子との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校と5年にわたって不倫していたことを認めた。そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した(''→別居生活'')。
1996年8月に離婚が成立。2人の王子の親権を皇太子と平等に持ち、また莫大な慰謝料を獲得した。離婚後、エイズ問題や地雷除去問題など慈善活動への取り組みを本格化させる(''→離婚と慈善活動'')。またこの頃からパキスタン心臓外科医と交際するようになる。さらに1997年7月からはエジプト映画プロデューサードディ・アルファイドとの交際も開始する(''→ハスナット・カーンとドディ・アルファイド '')。
1997年8月31日深夜、フランスパリでドディとともに乗車していたが交通事故を起こして死去する(''→パリで交通事故死'')。死後、チャールズ皇太子の意向によりイギリス王室が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、女王エリザベス2世が特別声明を出し、また葬儀中にはバッキンガム宮殿半旗が掲げられるという異例の処置が取られた(''→哀悼・葬儀'')。
生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた(''→ファッション'')。また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた(''→離婚と慈善活動他者への愛'')。死後も彼女の人気は極めて高い(''→ダイアナ人気'')。訪日は三度行っており、1986年昭和61年)の最初の訪日では日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした(''→ダイアナの来日'')。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Diana, Princess of Wales 」があります。




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