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ソドマ : ウィキペディア日本語版
ソドマ

ソドマ(Il Sodoma, 1477年 - 1549年2月14日?)は、マニエリスム期のイタリア画家。本名はジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ(Giovanni Antonio Bazzi)〔Also wrongly spelled Razzi. The artist's real surname is uncertain. He is said to have borne the family name of "Sodona" but also the name "Tizzioni". Sodona is the signature on some of his pictures. While Bazzi was corrupted into Razzi, Sodona may have been corrupted into "Sodoma". Whatever the origin, the name indicate that the artist was homosexual.〕。ソドマの絵は、シエナ派の伝統的様式の上に、16世紀ローマ盛期ルネサンス様式を付加した手法で描かれている。2度のローマ滞在を除けば、生涯のほとんどをシエナで過ごした。
==生涯==
ソドマはバチス家の出身で、ピエモンテヴェルチェッリで生まれた。ソドマの最初の師匠は「アルカイック」と呼ばれたジョヴァンニ・マルティーノ・スパンゾッティ〔A minor painter, called "archaic" by Freedberg 1993:117, of whom one signed picture is known.〕。
また、ジローラモ・ジオヴェノーネの弟子でもあったようである。その力強い彩色など独特のスタイルはロンバルディア派から獲得したものであろうが、ソドマがミラノに行ったことはあまり知られていない〔Morelli, in his ''Italian Pictures in German Galleries'' claimed that he ripened into an artist only during two years (1498 - 1500) that he spent with Leonardo in Milan.〕。
ともかく、レオナルド・ダ・ヴィンチの表面上のマニエリスムを取りこんで''(フリードバーグ、1993:117)''から、1503年にはシエナに移っていた。おそらくスパンノッキ家の代理人の要請があったものと思われる。ソドマはベネディクト会修道士のためにフレスコ画の連作を、また、シジズモンド・キージ侯爵のキージ宮には、ユリウス・カエサルの生涯をオウィディウス的な天井のパネルと小壁に描いた。〔 . Sigismondo was the guarantor of Sodoma's performance for Julius, October 1508, and his brother Agostino became Sodoma's notable patron.〕
ソドマはピントゥリッキオと並んでシエナで盛期ルネサンス様式を実践した最初の一人だった。そんなソドマの最初の重要な作品は、シエナからローマに行く途中にあるモンテ・オリヴェート・マジョーレのベネディクト会修道院に描いた17枚のフレスコ画であろう。聖ベネディクトゥスの生涯を描いたもので、1498年ルカ・シニョレッリの仕事を引き継いだものである。人気のあったピントゥリッキオの様式の中にある流暢さを取り入れて、1502年に完成したその絵の中には、アナグマの毛皮を着たソドマ自身も描かれている〔Illustration. 〕。
高名なシエナ人商人アゴスティーノ・キージに招かれて、ソドマは1508年にローマに行き、そこでバチカン宮殿の「署名の間」の仕事を教皇ユリウス2世から依頼された。ソドマはピンテゥリッキオが復古させた古典的様式で、2つの大作とさまざまな装飾、それに、見せかけの仕切りによって分けられた丸天井にはグロテスクなものを作り上げた。ジョルジョ・ヴァザーリの話によると、ソドマの大作を教皇は気に入らなかったらしい。しかし、教皇が「正義」「詩学」「神学」の制作を代わりにラファエロにやらせたという説は記録からは裏付けられない〔Recent cleaning revealed the essential intergrity of Sodoma's existing ceilings, illustrated by Bartalini 2001.〕。
1510年10月にはソドマはシエナに戻っていて、キージ宮の外装を描いていた。白黒のキアロスクーロで、聖書やギリシア・ローマ時代を題材に描いたが、そのようなものはシエナでは初めてだった''(ベルタリーニ、2001:553)''。当時のソドマの絵には明らかにフィレンツェ派(とくにフラ・バルトロメオ)の影響が見て取れる〔Freedberg (1993:117) notes the source of his ''Crucifixion'' (Pinacoteca, Siena) in the composition of an altar for Santissima Annunziata, Florence, begun by Filippino Lippi and finished by Perugino.〕。ちなみに外装はフレスコの化粧漆喰だった。
キージによって再びローマに呼び戻されたソドマは、ヴィラ・キージ(現ヴィラ・ファルネジーナ)でバルダッサーレ・ペルッツィと仕事をした。ソドマはそこでアレクサンドロス大王の生涯を描いた。『ダリウスのテントにいるアレクサンドロス』、『征服者とロクサネの婚礼』はどちらも傑作であると言われている。1513年レオ10世がローマ教皇になり、ソドマは教皇に『ルクレチアの死』(いくつかの記述では『クレオパトラ』)を献上した。レオ10世はソドマに多額の報償を与え、ソドマをカヴァリエーレ(騎士)にした。
しばらくして、ソドマは再びシエナに戻り、ピサヴォルテッラルッカに仕事を探した。ルッカからシエナに戻ってきてまもなく、1549年2月14日、ソドマは亡くなった(古い話では1554年とも)。記録には残っていないが、おそらく浪費で財産を使い果たし、シエナの病院で赤貧のうちに死んだものと思われる。
若い頃、ソドマは結婚したらしいが、妻とはすぐに別れた。娘はソドマの弟子の一人バルトロメオ・ネオーニ(別名リッチョ・サネーゼ、またはマエストロ・リッチョ)と結婚した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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