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ズデンコ・ベルデニック : ミニ英和和英辞書
ズデンコ・ベルデニック
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ズデンコ・ベルデニック : ウィキペディア日本語版
ズデンコ・ベルデニック

ズデンコ・ベルデニック(、1949年5月2日 - )は、スロベニア出身のサッカー指導者。
== 来歴 ==
両親ともに教師という家庭に生まれる。リュブリャナ大学では体育学を専攻〔。3部のソボーダというクラブでプレーしながら大学生活を送り〔、1972年にリュブリャナ大学の指導者育成コースを卒業〔『週刊サッカーマガジン』No.852 2002年2月13日、18-19頁〕。1972年からはユーゴスラビア2部リーグに所属していたでプレーした。
近眼のため選手生活を続けるのが難しくなっていたころ、大学時代の教授だったブランコ・エルスナーに誘われ、彼の下でアシスタントを務めるようになる〔。また、大学での研究と並行して、3部リーグのNDスロヴァンでは選手兼監督を務め〔、28歳で選手を引退した〔。1970年代後半にはドイツ体育大学ケルンでフスバルレアラー(最上位の指導者ライセンス)コースを修了。リュブリャナ大学で講師をしつつ、ユーゴスラビア2部リーグのクラブで指揮を執った〔『週刊サッカーマガジン』No.985 2004年8月10日号、46頁。〕。1981年にザグレブ大学修士課程修了〔、1985年にリュブリャナ大学博士課程修了〔。
ドイツ時代に知り合った祖母井秀隆が監督を務める北摂蹴鞠団大阪体育大学サッカー部の2軍チーム)の合宿に特別コーチとして招かれ、後に「ゾーンプレス」の名で知られるようになる戦術を指導した。チームはベルデニックが残したビデオテープを参考にして好成績を残し、大阪府社会人リーグから関西サッカーリーグに昇格、1991年の全国地域サッカーリーグ決勝大会で2位になった。
祖母井の紹介によって、全日空(1992年に横浜フリューゲルスに改称)の監督就任を控えていた加茂周と出会い、1991年より彼の下でコーチを務める〔。横浜Fではベルデニックと加茂による話し合いの中で、アッリーゴ・サッキが監督を務めるACミランのプレッシング戦術(ゾーンプレス)を参考とすることが決まった〔。
1993年の1stステージ終了後、ベルデニックは横浜Fを退団して、スロベニア代表監督に就任した。UEFA EURO '96予選では、初戦でイタリアに1-1で引き分けたものの、最終的には3勝2分5敗で予選敗退。1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選でも敗退し、代表監督から退いた。
1998年5月にオーストリア・ブンデスリーガFKアウストリア・ウィーンの監督に就任した。しかし、多大な強化予算を与えられ、多くの代表選手を獲得したものの、チームの成績は一向に改善されず、11ヶ月後には成績不振で解任された。
2000年8月、残留争いのさなかにあったJリーグ ディビジョン1ジェフユナイテッド市原監督に就任。2ndシーズン途中からの就任だったが、降格圏から1つ上の年間総合14位でチームを残留させた。2001年は開幕前には「8~10位」を目標として掲げていたものの、実際には1stステージ2位、2ndステージ5位という好成績を残した。
この実績から2002年は市原との契約が残っていたにもかかわらず、市原の倍額以上とみられる年俸と複数年契約を提示した名古屋グランパスエイトに引き抜かれる〔『週刊サッカーマガジン』No.935 2003年8月19日号、40-41頁。〕〔『週刊サッカーマガジン』No.846 2001年12月26日号、29頁。〕。名古屋では2002年1stステージで3位となったが、2ndステージでは13位と低迷した。翌2003年の1stステージでは第13節まで無敗記録を更新し〔、その時期にはカップ戦でも負けなしだった〔。しかし引き分けの試合が多く、最終的に1stステージで7位に終わり、最終節終了後に成績不振を理由に解任が発表された〔。名古屋のチーム運営本部長小川幸司は解任理由について「勝ちきれない」ことと答えた〔。一方ベルデニックは、「チームのベストプレーヤーで、必要な選手」〔 と考えていたFWイヴィツァ・ヴァスティッチとの契約延長をクラブに求めたが聞き入れられなかったと語る〔。彼は「私が必要と言い続けた選手を、クラブは切った。クラブは私を信用していない、その雰囲気が選手にも伝播し、選手たちの私への信頼感も揺らいでいった」〔「ヴァスティッチをとどめていれば、優勝できたといまでも思っています」〔 と振り返る。
2003年9月から2005年までの2年契約でベガルタ仙台の監督を務めたが、成績不振を理由に2004年度シーズン終了をもって解任された。解任後はスロベニアのリュブリュナ大学で教授を務めるかたわら、新聞や雑誌などで解説者として活動し、サッカークリニックなどの活動でしばしば日本を訪れた。また、2009年から1年間スロベニア代表チームディレクターを務めた。
2010年7月よりスロベニア2部リーグに所属するNKインテルブロック・リュブリャナの監督に就任し、2位となったもののチームが昇格を拒否したことなどから退団。その後はスロベニアサッカー協会でスポーツディレクターを務めた。
2012年6月、大宮アルディージャの監督に就任〔。8年ぶりの日本復帰となった。就任後は第24節から最終節まで11試合連続無敗を記録するなど、就任時点で15位に低迷していた大宮のJ1残留を果たした。2013年は開幕戦から第10節まで無敗、前年から数えて21試合連続無敗のJ1新記録を樹立した〔大宮の無敗記録が21試合でストップ…最後に敗れた仙台に再び黒星 - サッカーキング〕。その後、第16節から第20節まで5連敗を喫すると、第20節の翌日の8月11日に監督を解任された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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