翻訳と辞書
Words near each other
・ スティニャーノ
・ スティパ・カプロニ
・ スティヒティング・インカ・ファウンデーション
・ スティフ・マン症候群
・ スティブネイジ
・ スティブネイジFC
・ スティブネイジ・ボロFC
・ スティブネージ
・ スティペ・エルツェッグ
・ スティペ・プレティコサ
スティペ・メシッチ
・ スティポ
・ スティミリアーノ
・ スティモシーバー
・ スティラ
・ スティラコサウルス
・ スティラマティ
・ スティリアニ・パパドプル
・ スティリアニ・パパドポウロウ
・ スティリアノス・アテシュリス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スティペ・メシッチ ( リダイレクト:スティエパン・メシッチ ) : ウィキペディア日本語版
スティエパン・メシッチ

スティエパン・メシッチクロアチア語:Stjepan Mesić、1934年12月24日 - )は、クロアチア政治家。2000年より同国大統領を2期10年務めた。自由主義・親西側派の民族主義者であり、クロアチアのNATO加盟を支持している。
1970年代初め、ユーゴスラビアにおけるクロアチアの権利平等を求める反政府運動(いわゆる「クロアチアの春」)に参加。禁固2年の判決を受け、1年間服役した。釈放後、法学者として働き、科学活動に従事した。
1989年、クロアチア民族運動「クロアチア民主協力(HDZ)」(後に政党化)の創設に参加し、書記、後に党執行委員会議長となった。
1990年、メシッチは共和国政府を率いユーゴスラビア社会主義連邦共和国幹部会の議員となった。
憲法上の議長交代制度に従って1991年5月15日にユーゴスラビア幹部会議長となった。最後の国の指導者となる希望を再三表明し、ユーゴスラビアの分割に参加。
1992年、独立したクロアチア共和国の議会議長。1994年、HDZの政策、特にボスニア問題への不同意により解任。
1997年5月、ハーグ裁判所に自発的に出廷し、ボスニア・ヘルツェゴビナ内でのクロアチア人部隊の活動について証言した。HDZを脱党し、クロアチア独立民主(HND)党を設立。同年、HND解散後にクロアチア国民党(HNS)党員となり、HNSのザグレブ市支部を率いた。
2000年2月7日、クロアチア共和国大統領に選出。
2005年1月17日、投票数の66%を得票し、大統領に再選。2005年の大統領選での公約は、クロアチアのEU加盟と欧州民主国家の地位獲得だった。
== パーソナル ==
クロアチア、オラホヴィツァ村出身。1961年、ザグレブ大学法学部卒業。
英語を話し、ロシア語も少し話せる。







抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティエパン・メシッチ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.