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ジョージ・ホサト・タケイ : ミニ英和和英辞書
ジョージ・ホサト・タケイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョージ・ホサト・タケイ ( リダイレクト:ジョージ・タケイ ) : ウィキペディア日本語版
ジョージ・タケイ[ちょうおん]

ジョージ・ホサト・タケイ・アルトマン英語:George Hosato Takei Altman、日本名:武井 穂郷〈たけい ほさと〉、1937年4月20日- )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれの俳優である。日系アメリカ人二世。『宇宙大作戦』から始まる『スタートレック』シリーズのヒカル・スールー役が有名。
== 来歴 ==
ジョージ・タケイは1937年4月20日、ロサンゼルスで不動産業を営む、山梨県生まれでアメリカ移民の父タケクマ・ノーマン・タケイと、カリフォルニア州生まれで日系二世の母フミコ・エミリー(旧姓ナカムラ)との間に3人兄弟の長男として生まれた。母方の祖父母広島県からの移民〔『星に向かって』 ジョージ・タケイ著、貞包智悠・貞包有美訳、有悠、2005年、78頁〕〔相互理解の礎に/来年初の「日系人博物館移動展」/沖縄からスタート 〕。父が親英派であったために、ジョージ6世の名前から「ジョージ」と名づけた〔Taken from Takei's comments on the ''Howard Stern Show'', 9 January 2006〕〔''To the stars: the autobiography of Takei, Star Trek's Mr. Sulu'' by George Takei〕。
平和な日々を送る一家に転機が訪れたのは1941年日米開戦からである。タケイ一家は1942年大統領令9066号によりアーカンソー州ローワー強制収容所へ強制収容されることになる。過酷な日々を送っていた一家は、今度はタケイの父が当時踏み絵的に行っていたアメリカ政府に対する忠誠心の調査「忠誠登録」(Loyalty Questionnaire)で忠誠を拒否したために、カリフォルニア州テュールレイク強制収容所へ送られた。テュールレイクは反米主義者とみなされた者が多く送られた場所で、一種の隔離収容所であった。1945年8月の終戦後もテュールレイクだけは翌年まで閉鎖されなかった。タケイ一家は、3年あまりにわたる苦難の生活から解放された後、タケイの生まれ故郷ロサンゼルスへと帰郷する。片道切符と政府から支給された25ドルしかなかった家族は、ロサンゼルスのスラムに住まざるを得なかったが、そこでクリーニング店を始め、その後軌道にのる。
タケイは1956年建築学専攻でカリフォルニア大学バークレー校に入学するが、在学中に俳優の夢を持っていたために1958年カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に編入、演劇学学士大学院で演劇学修士を取得する。
1960年リチャード・バートン主演の『北海の果て』の出演がきっかけで、俳優としての知名度を高めていくこととなる。1966年、自身の看板作品となる『スタートレック』シリーズにおいて、番組のプロデューサー、ジーン・ロッデンベリーの発案でヒカル・スールーを演じることになり一層知名度を高める。当時のアメリカのテレビ界において、アジア系俳優が主要な役を与えられるのは初めてであった。
政治の世界にも興味を示し、1972年には民主党大統領大会の公式代表になった他、翌1973年にはロサンゼルス市議会の議員に立候補し落選している。1987年には日系人として初めてハリウッドウォーク・オブ・フェームに名前を残している。
1995年、当時大統領を務めていたビル・クリントンから指名を受け、日米文化教育交流会議(CULCON)の承認を受けたプログラムを運営する、日米友好基金(JUSFC)の理事を務める。
2004年11月には今までの功績を称えられ、旭日小綬章を授与された。
タケイは俳優業の傍ら日系市民協会 (JACL) に積極的に参加するなど、日系アメリカ人の社会的地位向上にも大きく寄与している。ロサンゼルスにある全米日系人博物館では1984年から現在に至るまでメンバーとして参加。2002年及び2003年には理事会の会長を務めている。日系人の関わる行事には必ず出席しており、その誠実で真摯、気さくな人柄は日本人のみならず世界の多くの人に親しまれている。
2005年には自叙伝である『星に向かって』の翻訳版が日本でも出版された。これまでも数多く来日しており、自叙伝の出版記念で来日した際には京都神田にある三省堂本店でサイン会を行ったり、世界SF大会(ワールドコン)のファン交流のためにパシフィコ横浜を訪れたりしている。また、母が広島出身の関係で、広島の親戚の元も訪れた〔友人たちとの来日 | 最新情報 - George Hosato Takei ジョージ・ホサト 〕。
2011年に起きた東日本大震災の際には、twitterなどでアメリカ国内はもちろん、世界へ向けても支援を呼びかけた。動画配信なども行い、英語と日本語を交えてメッセージを発信したほか、メディアへ出演して日本への想いも語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・タケイ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Takei 」があります。




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