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ジョン・ドス・パソス : ミニ英和和英辞書
ジョン・ドス・パソス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジョン・ドス・パソス : ウィキペディア日本語版
ジョン・ドス・パソス

ジョン・ロデリーゴ・ドス・パソスJohn Roderigo Dos Passos, 1896年1月14日 シカゴ - 1970年9月28日 ボルチモア)はアメリカ合衆国小説家画家
==生涯==
ドス・パソスの父親ジョン・ランドルフ・ドス・パソス・ジュニア(1844年 - 1917年)は弁護士で、マデイラ諸島からのポルトガル人移民の子。母親はバージニア州ピータースバーグ出身のルーシー・アディソン・スピリッグ・マディソン。非嫡出子だった。1910年に両親は結婚したが、父親がドス・パソスを自分の子として認知したのは亡くなる1年前のことで、それまではジョン・ロデリーゴ・マディソンと名乗っていた。しかし、教育は申し分なく、1907年コネチカット州ウォリングフォードチョート・ローズマリー・ホールに入学。個人教師とともに6ヶ月間、フランスイングランドイタリアギリシャ中東を旅し、古典美術・建築・文学を学んだ。1912年ハーバード大学に入学。1916年に卒業すると、スペインに美術と建築を学びに行った。
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、ドス・パソスは友人のE・E・カミングス、とともにノートン=ハージェス救急隊に志願し、パリと北イタリアで運転手として働いた。1918年アメリカ陸軍医療科に編入され、ペンシルベニア州のキャンプ・クレインに軍役。戦後はパリに配置され、アメリカ陸軍海外教育委員会の許可を得てソルボンヌで人類学を学んだ(「U・S・A」3部作の登場人物も同じ軍役を経て戦後パリにとどまっている)。
1920年、最初の小説『One Man's Initiation: 1917(一人の男の入門 1917年)』を出版(小説の下書きは1918年夏の終わりには完成していた)。「失われた世代」の1人と見なされた。続いて反戦小説『Three Soldiers(三人の兵卒)』を発表する。1925年ニューヨークの生活を扱った『マンハッタン乗換駅』では「意識の流れ」の実験的技法を導入し、商業的にも成功を収めた。
ドス・パソスはアメリカを、金持ちと貧乏人の2つの国家と見るようになっていった。世界産業労働組合について好意的に書き、サッコ・ヴァンゼッティ事件の有罪判決については、二人の死刑をやめさせるため、アメリカ・ヨーロッパの著名人たちと連帯した。1928年、ドス・パソスは社会主義のシステムを学ぶため数ヶ月間ソビエト連邦を旅行。スペイン内戦が始まると、アーネスト・ヘミングウェイとともにスペインに行った。しかし、共産主義運動についてのドス・パソスの考えは既に変わり始めていて、ヘミングウェイやと訣別。後にヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、金持ちの友人を連れてきて自分の愛する地を汚染したとして、ドス・パソスを「ブリモドキ」と呼んで非難した。
ドス・パソスの代表作「U・S・A」3部作は、『北緯四十二度線』(1930年)、『一九一九年』(1932年)、『ビッグ・マネー』(1936年)から成る。新聞の切り抜き(「ニュース映画」)・作者の意識の流れ(「カメラの目」)・登場人物たちそれぞれのドラマで、20世紀初頭の「アメリカ合衆国」を、虚実織り交ぜて、実験的手法で、眺望したものである。それぞれの小説は独立しているが、3部作としても読めるように出来ている。アメリカの政治・経済に対するドス・パソスの見方はとても悲観的である。第一次世界大戦の間、どの登場人物も自分の理想を保ち続けることができない。
1930年代中期、ドス・パソスは共産主義を非難する記事を書き続けた。『ビッグ・マネー』では、理想主義的な共産主義者が、党の集団思考によって徐々に消耗し、ついには滅ぼされる。しかし、ファシズムに対抗してヨーロッパで社会主義が支持を得たために、ドス・パソスの国際的な本の売り上げは落ちていった。ドス・パソスは右傾化し、1950年代初期にはジョセフ・マッカーシーを賞賛していた。それにもかかわらず、ヨーロッパはドス・パソスの文学への貢献を認め、1967年にはアントニオ・フェルトリネリ賞をドス・パソスに贈った。ドス・パソスのシンパは、ドス・パソスが信条を変えたがために後期の作品が無視されたと主張するが、評論家の間では「U・S・A」以降、作品の質が低下したということで意見は一致している。
第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて、ドス・パソスは戦争特派員として働いた。1947年には、に選ばれた。しかし、その年、悲劇が襲った。交通事故で18年間連れ添った妻キャサリンが亡くなり、ドス・パソス本人も片目を失ったのである。二人の間に子供はいなかった。1949年、エリザベス・ハムリン・ホルドリッジ(1909年 - 1998年)と再婚。翌1950年には娘のルーシー・ハムリン・ドス・パソスが生まれた。子供はルーシー一人だけである。
ドス・パソスは亡くなるまで、執筆を続けた。1970年、ドス・パソスはボルチモアで没し、自宅からそう遠くないバージニア州ウェストモアランド郡Cople ParishのYeocomico Churchに埋葬された。
ドス・パソスは42作の小説の他、詩、エッセイ、戯曲、そして400点以上の美術作品を残した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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