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ジョセフ・ライマン・シルスビー : ミニ英和和英辞書
ジョセフ・ライマン・シルスビー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョセフ・ライマン・シルスビー : ウィキペディア日本語版
ジョセフ・ライマン・シルスビー[ちょうおん]

ジョセフ・ライマン・シルスビー(Joseph Lyman Silsbee, 1848年 - 1913年)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した、アメリカ合衆国の建築史上重要な建築家。描画力に優れ、多様な様式で建物を設計する才能にも恵まれていた。シルスビーは、その影響下から多くの建築家を輩出し、とりわけ、高名なフランク・ロイド・ライトプレーリー派(Prairie School)と称された建築家たちに大きな影響を与えたことで知られている。
== 生い立ち ==
1848年に、マサチューセッツ州セーラムで生まれたジョセフ・ライマン・シルスビーは、高名な寄宿学校フィリップス・エクセター・アカデミーと、ハーバード大学を卒業した。その後、アメリカ合衆国最初の建築学校としてマサチューセッツ工科大学に設けられたばかりの建築学校の学生となった。その後、ボストンの設計事務所 Ware & Van Brundt や、建築家ウィリアム・ラルフ・エマーソン(William Ralph Emerson)の下で見習い修行をした後、シルスビーは欧州各地を旅し、1874年ニューヨーク州シラキュースに定着した。1875年にシルスビーは、影響力のある弁護士で政治家でもあったチャールズ・ボールドウィン・セズウィック(Charles Baldwin Sedgwick)の娘、アンナ・ボールドウィン・セズウィック(Anna Baldwin Sedgwick)と結婚した。
シルスビーは、1857年から死去する1913年まで建築設計を続けた。シルスビーは、精力的に多数の建築に従事し、一時は3都市に事務所を構え、並行して業務をこなしていた。シラキュースの事務所(1875年 - 1885年)のほか、バッファロー(Silsbee & Marling, 1882年1887年)やシカゴ(Silsbee and Kent, 1883年1884年)にも事務所が設けられた。なお、1883年から1885年にかけて、シラキュースの事務所はエリス・G・ホール(Ellis G. Hall)との共同経営となっていた。シカゴの事務所は、後に活躍して有名となる建築家を数多く輩出し、その中にはフランク・ロイド・ライトジョージ・グラント・エルムスリーGeorge W. MaherIrving Gill らがいた。
シルスビーは、全米でも早い時期に開設されたシラキュース大学建築学校の創設時における教授陣のひとりであり、アメリカ建築家協会(American Institute of Architects)の創設メンバーのひとりでもあった。1894年には、「動く歩道」の設計に対して、フランクリン協会(Franklin Institute)からピーボディー・メダル(Peabody Medal)を授与されている。この発明は、1893年シカゴ万国博覧会で披露され、以降の万国博覧会でも使用されることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョセフ・ライマン・シルスビー」の詳細全文を読む




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